「お前、例の子に告白したってマジ? すげえ度胸だな」
「言わないで諦められねえだろ」
「男らしい~ でも相手が悪すぎだ」

休憩室のドアノブに手をかけて、ローは足を止めた。やれ告白やれ彼女だの。若い奴らは恋に仕事に、やけに体力があるもんだとローは感心すら覚えた。楽しそうに談笑しているところに、ローが入っていけばどういう空気になるかくらいは、さすがのトラファルガー・ローにも理解できたので、一度事務室に戻るかとドアノブからそっと手を離した。背を向ける。

「ああ、まさかトラファルガー先生と付き合い出すなんてなあ」

背を向けて、やっぱり開けなくてよかったと、数秒前の自分に感謝した。

****

 世界に77億人の人間が住んでいる2020年。男女比がちょうど半分と仮定して、33.5億人の男と女がいるこの世界で、なぜ人間は一人の同じ女性を好きになるのか。理論的に考えれば到底理解し難い。ローは大きくため息を吐いた。理由は、言うに及ばず。先ほど聞こえてきた、顔も知らぬ同僚の会話のせいだ。

 結局顔も見ずにその場を去った。どこの誰かもわからないし、本当に相手が彼女だったか、まあ間違い無いとは思うが、絶対に言い切ることはできない。話の結末もわからない。しかし、この心の靄はなぜ晴れないのか。ローには薄っすらと見当がついていた。

「―――なんかありました?」
「は?」
「いや顔」
「いつも通りだ」
「いやいや」

クマ酷いっすよ。ペンギンが笑った。ローは気にしていなかったが、酷いクマだった。午前に共に働いた看護師が恐れをなして逃げたくなるくらいにはピリついた空気を発している。誰も理由を詮索しないのは、いつものことである。

「ローさんが恋人がらみでそんな顔する日が来るなんて」
「ちげえよ」
「またまたぁ」

恋の悩み? まさか。これは恋ではなかった。
ただの茶番劇。童貞を拗らせて魔法使いになってしまったこと隠すために、彼女の力を借りた。後手に回って思わぬ方向になってしまったが、まあ今のところ上手くやっている。

 しかし、それはローにも彼女にも特別な人間がいなくて、二人の偽りの関係がどちらの生活の妨げにもならない場合だけだ。もし、彼女に本当は好きな人間がいるとすれば? 考えたこともなかった。好きな人がいないとしても、あの休憩室の男のように彼女に思いを寄せる真摯な男がいたら? ローは彼氏であって、彼氏ではない。彼女があの男と付き合いたいと思ったら、ローとの関係は厄介なものになるだろう。

 やめるべき。そうでなくとも、話をすべきだ。

 いつもなら、「ローさぁん」と間延びした声で迎えに来る彼女を待っていればよかった。しかし、今日に限っていつもと違うことをした。さっさと話をしたかった。理由はない。

「……でも、ずっと好きだったんじゃないの?」

だから、余計な話を聞く羽目になる。ローは、また足を止める。数時間前と全く同じ。今日は余計な話ばかり聞く。

「ローさん、何かありました?」

 目の前の彼女が、心配そうにローの顔を覗き込んだ。曇りのない瞳だった。“嘘をつかない”。ローがあげた彼女の美徳。その彼女に嘘をつかせているのは、紛れもなく自分自身だ。

『ずっと好きだったんじゃないの?』
『そ、そうだけど』
『じゃあそう言いなよ、分かってくれるって ――トラファルガー先生なら』

彼女の同僚の声だった。
今来たような顔で、そこに入れば驚いた顔した彼女が、それでも花の咲くような笑顔を見せる。飯は、とローが聞けば「行きます」と元気に答えて、彼女が最近お気に入りのチキンの店に来た。

 いつも通りのように見えた。言葉も、顔色も、美味しいですよと、チキンを頬張る笑顔も。でもさっき聞いた話が本当なら、彼女はずっと好きだった男に告白されたのだ。解放しなければいけないと思った。ローの心の中に、同時に沸き起こった感情が、だがしかしと、己を一度引き止める。

「大事な話でもあったり、しますか…?」

心配が不安に変わる。彼女の顔を見て、ローは静かに笑った。そんな顔をさせるべきではないと思った。彼女の笑った顔を好ましいと思っていたから。

「長い間、付き合わせて悪かった」
「へ?」
「お前から別れを告げたことに。交際の経緯はどう言っても構わない」
「ロー、さん?」

テーブルの上に乗せられた彼女の手に、一度だけローの大きな手が触れる。『付き合っている』と外形上はしたけれど、恋人らしく手を繋いだ試しもない。30歳にして真剣に恋に打ち込んだことのない童貞だったからではなく、ローが臆病だったから。理由は明快。触れてすぐに離れる。彼女はとても驚いていた。

「恋人ごっこは終わりだ」

席を立つ。振り返りはしない。
それは、恋ではないはずだった。