「すいません、あの良ければお茶でも」
トラファルガー・ローは逡巡した。確かに迷いはある。付き合ってもいない男女。遅い時間に、女の家に上がるなんてよくはない。しかし、誘ったのは彼女自身であるし、アルコールを摂取して喉は実際乾いている、あわよくばお手洗いを借りたい。ローは彼女の顔をじっと見つめて、そして、自分たちは『茶番』であるとしても『お付き合い』しているという外形条件が備えていることに行き着いた。
「……邪魔する」
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ペンギン、シャチと別れ、彼女の家まで送ると申し出たのは、ローの方だった。随分と遅い時間まで付き合わせてしまったし、彼女の家は駅から歩いて15分。住宅街で、深夜は人の数も少ないと聞けば、それは必然的な流れだった。少なくとも、身長190センチ越えの強面を隣に歩いていれば、危険な目には合うまい。
そこまで飲んでいなかったとはいえ、酔うと楽しくなる性格なのか、彼女はニコニコと柔和な笑みを浮かべ、シャチさんって~、ペンギンさんって~と、今宵の感想を述べていた。彼女の口から別の男の名前が挙がることに、少々違和感を覚える。ローはそれを見てみないふりをした。
彼女の部屋は、まさに女性の部屋という装いだった。淡い青のカーテンに、白で統一された家具。あまり整頓に回す時間がないと聞いてもない言い訳を述べていたが、繁忙期のローの部屋に比べれば、とても綺麗な方だ。そもそも比べるのが間違いだが。「お茶って言いましたけど、コーヒーの方がいいですよね」
今淹れます、と彼女が立ち上がる。どうぞ掛けて、と言われたので、ローは少し悩んで、カバンを床に置き、イスに座った。女性の一人暮らしなので、小さなテーブルにダイニングチェアが二つ。そんなものかと思う。そういえば、女性の部屋の上がるのは初めてかもしれない、とも。ローは生粋の童貞である。
ぼうっと飾られた写真立てを見ていると、すぐ近くでいい香りがして、彼女が大きめのカップを持って、立っていた。ローの前に置かれる。ブラックコーヒー。牛乳がなくて、と彼女はポーションを二つその隣に添えた。この怖い顔して、ブラックコーヒーよりもミルクを入れる方が好むということを知っているのは、ごく僅かだ。
「すいません、久しぶりのお酒で汗かいちゃったみたいで。軽くシャワー浴びてきてもいいですか?」
「あ? …ああ」
「髪と体濡らしたらすぐ出ますから。あ、もし飲み終わっちゃったら帰っても大丈夫ですよ、ここに鍵置いとくので、出るときポストから中に落としてください」
このとき、彼女は軽く酔っていたし、ローにシャワー上がりを見せる羞恥と、酒と汗まじりの自分が彼と狭い部屋にいる羞恥を天秤にかけ、後者が僅かに傾いた。素面だったら絶対に選ばないが、どうしてもシャワーを浴びたいと思ってしまった、どうかしてる、…とは、彼女の後日談。
さて、部屋の一人残されたロー。23時58分。なぜ女の部屋で一人コーヒーを飲んでいるのか。さっさと飲んで出て行こうかと思ったが、テーブルの上のシルバーを見ても、どうにもそういう気持ちにもならない。仕事終わりのお酒。最近まあまあ患者が多かったし、疲れているのかと思うことにして、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。あまり広くはない部屋。どうしたってシャワーの水温が聞こえてくる。気を紛らわすように壁に目をやれば、白い紙が貼ってある。【お知らせ】と書かれた紙。下には、赤字で日付と時間、断水のお知らせと書いてある。その日付が、今日、そして時間がたった今を指していると気づいたと同時に、風呂場から『はっ?』と大きな声が聞こえた。
緊急点検につき、断水。さてどうするかと思った時に、風呂場から自分を呼ぶ声がする。流石に扉を開くわけにもいかないので、ドアに背を預けて、素知らぬ声で「どうした」と問うてみた。ローは別に性格がよろしくない。
「あの、その水が出なくて、ですね」
「ああ 断水の知らせが貼ってあるな」
「だっ、断水⁉ あ、ああ~ 来てたな、お知らせ…」
「それで」
「えっと、今、泡だらけでして、冷蔵庫から水のペットボトルとっていただければ幸いです…」
徐々に小さくなる声に口元を緩めながら、ローはキッチンに置かれた冷蔵庫の扉を開く。しかし、あるべき場所にペットボトルは見当たらない。ふとゴミ箱を見れば分別されたゴミ箱の一つに、綺麗にラベルが剥がされたペットボトルが捨てられている。絶対にこれが水だなと判断した。
ちなみに、これは、ローが無駄に舌が肥えているように見えるせいで、こんな安いインスタントコーヒーで大丈夫か?と気を回し、せめて水だけでも、と無駄にミネラルウオーターで湯を沸かしたからである。浄水器の水を使えば、こんなことにはならなかった。
「ないぞ」
「えっ?」
驚いた後で、彼女は先ほど自分がラベルとキャップをとって捨てたペットボトルのことを思い出し、絶望した。打つ手なし。このまま泡のまま出てタオルで拭き取るか。嫌な予感しかしないが、他にどうしろというのか。
その時、ふと、彼女は扉2枚隔てた向こう側にいる彼のことを思い出した。
「あ、あの、ローさん」
「ああ?」
「もしかして、魔法で水出せたりしませんかね」
彼女は、ロー自身よりも彼の魔法を信用していたし、期待もしていた。ローはまさかそんなこと言われるとは思わず、言葉を失ったが、やってもいないのに無理だというのもおかしな話だと思い直した。
「やってみるが、あまり期待すんな」
期待するな、と言ったのにすっかり救われた気になった彼女は、キラキラとエフェクト付きの声で、ありがとうございますと感謝を述べた。ローはそんなんだから断水も忘れるんだと心の中で小言を言いながら、意識を向こう側に集中させる。水、水、水。シャワーをイメージしながら、彼女の姿を思い浮かべる。もちろん、シャワー中なので、裸であった。
「あ、水! ん? ぎゃああああああああ」
それはシャワーというより、ゲリラ豪雨であった。加減を違えた感触はあったが、如何せん、不可抗力である。おおよそ恥じらう女性の声とも思えない叫び声を聞いて、ローは吹き出した。
通報されなかったのは、ただの幸運である。
「一応お礼は言います、ありがとうございました」
「冷たかったか」
「いや温度は問題ではなかったですね」
ニヤニヤと緩んだ口元を隠そうともせず、ローが問う。彼女は乾いた髪を櫛で梳かし、ラフな格好に着替えて彼の前に座った。ローが出した大量の水ですっかり目が冴えたいま、途轍もなく恥ずかしいこの状況に、なぜ自分がシャワーを浴びたいと言い出したのか、頭を抱えたくなった。
「時間、終電無くなっちゃいましたね」
ローが、彼女のために勝手にいれたココアを差し出す。コーヒーや紅茶で彼女の眠りを妨げない、ほんの気遣い。もちろん彼女も気づく。
「すいません、私のせいで」
「いい 元々タクシーを拾うつもりだった」
「そう、ですか。ならいいんですけど、」
申し訳なさは依然消えないのか、彼女がへにゃりと力なく笑う。ローはそれが嫌だなと思った。口には、出さなかったけれど。
「少しは元気になったか」
「へ?」
「今日、カイドウに怒られたんだろ」
彼女はどうしてそれを、と目を見開いた。事実だったが、まさか知っているなんて思わない。ローはたまたま怒られていた時に近くにいただけで、他意はない。しかし、今日は夜にペンギンたちとご飯に行く日だったので、ほんの気持ち、気を遣った。彼女の嘘笑いなど見たくはなかった。
「あれはお前は悪くねえよ」
「……」
「今日は機嫌が悪かったんだろ、運が悪かったと思え」
彼女が小さく笑って、ハイと頷く。感謝の言葉も忘れない。ローは、気休めを言っているのではなく、本当に彼女は悪くないミスで、たまたま機嫌の悪かった医者の琴線に触れてしまっただけだから、そう言った。これは気を遣ったわけじゃない、と添えても、彼女は分かっていますと言うだけで。
「以前、担当患者さんが同じだったことあったの覚えてますか」
「…ああ」
彼女の名前こそ覚えていなかったが、一緒に仕事をしたことは覚えている。
「私は叱られて、それは本当に私のミスだったんですけど。その時もトラファルガー先生に見られていて、『お前が悪い』って」
「………」
「その通りなんですけど、容赦ないなあって思いました」
ローは眉を寄せた。容赦がない。この世で最もトラファルガー・ローという男にふさわしい言葉である。ローは悪くないので反省などする必要はないが、少しは人付き合いに必要な配慮を学ぶべきである。そう言ったのは、シャチだったかペンギンだったか。
「そういうところが好きなんです」
「あ?」
「見てなさそうで見てくれるところです」
彼女が笑う。それは淡い春だった。
冷たい風が道路を滑る、10月。満月に足らない月が美しい晩の話。