「お邪魔します」

彼女の遠慮がちな声。ローは彼女を待たずにリビングへと進んでいく。黒で統一された部屋。壁に並ぶ棚には医学書がズラリと並んでいる。それを見て、彼女が「おお…」と小さく感嘆の声を漏らした。

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 なぜ、彼女がローの部屋にいるのか。成り行きである。

 まず、二人が双方付き合っていることを認めたことから、噂は一気に院長室まで広まり、ローは廊下ですれ違った際に教授から「君にも良い人が出来て安心したよ」と謎の激励をもらい、頭を抱えた。

 しかし、あれもこれも全てそうなるために口裏合わせたのだから受け入れる他ない。時間が合えば一緒にランチ。あれ以降、サブウェイには行ってない。ローは昼には白米が食べたい人間だった。これでとりあえず外形は『恋人』になることができた。周りからやっかみや悲痛なコメントもこっそりと寄せられたが、本人の耳にまで届くことはない。

 そして、今日、終業時間ぴったり。上がろうと立ち上がると、ローを(裏で)海賊と呼ぶ同僚が、「お迎えが来たぞ~」と冷やかすような声色でローに声をかけた。会話したのは、二人の覚えている限りで五回目である。
 なんだ、と入り口まで行けば彼女が着替えを済ませ、ちんまりとそこで待っている。ローを視界に捉えると、パッと顔をあげ、小さく手を振った。今度はなんだ。

「すいません、突然…」
「なんかあったか」
「はい、あの一緒に帰ったりしてもいいのよと、ビッグマムに背中押されまして」
「…ああ」

ビッグマムとは、看護師長のあだ名である。その名の通り、体が大きく、飲み会に行けば大体目の前にあるものは吸い込まれる。器がでかく人望は厚いが、やや癇癪持ちの気があるという噂である。真相は闇の中。兎にも角にも、ビッグマムが若い看護師たちに将来有望な若者を紹介して、結婚相談所まがいのことをしているのは、部署関わらず有名な話。彼女もローと付き合っていることが知れて、余計なお節介を焼かれたのだろう。

「帰るか」
「そうですね、トラファルガー先生はお家近いんでしたっけ」

斯くして、二人並んで病院を出たところまでは良かったが、突然の土砂降りに遭い、泣く泣くローの家に避難してきたというわけである。もちろん彼女は全力で断ったが、風邪でも引いたら「医者の不養生」だと言われれば、タオルを借りに、という名目でお邪魔するほかない。晩年、目の下に深いクマをこさえるトラファルガー・ローには言われたくないと思ったが。

「タオル、これ使え」
「ありがとうございます」

脱衣所で、濡れてしまった靴下とカーディガンを脱ぎ、タオルで髪とスカートを拭く。彼の持ってきたハンガーにそれを掛けると、ローはそれを風呂場にぶち込み、乾燥にかけた。いかにも百均で買いました、みたいな感じじゃない質の良さそうなハンガーに、着替えたとは言え、家から履いてきた靴下とカーディガンを掛けされられた彼女の心中はお察し。

「そこ座れ コーヒーしかねえがいいか」
「あっ お構いなく」

濡れているのを気にしているのか、ソファの隅っこに腰を下ろした彼女を見て、ローはこの家に女が入るのは初めてだなと思った。忘れてはいけないのだが、この家に限らず、『トラファルガー・ローの家』に入った女性は、母親と妹、ドフラミンゴのファミリーを除けば、彼女が初。ローは童貞である。恋人が出来ても関係は進展しないし、家にも入れない面倒なタイプのエリートだった。

「熱いぞ」
「ありがとうございます」

白のマグカップを両手で持ち、彼女がフーフーと息をかける。ローは熱いものが好きなので、コーヒーの匂いを楽しんだらすぐに口をつけた。

 乾燥機が終わるまで約一時間。何をするにも中途半端な時間だ。とりあえず、会話のネタが思い浮かばなかったので、ローは口を開かなかった。そういう男。彼女の方とて、相手の家で居酒屋のように騒ぐわけにもいかず、黙って、コーヒーを飲んだ。本当はミルクが欲しかったが言えなかった。

 グウぅ
「――?」
「……すいません」
「もう飯の時間か」

時間はちょうど七時を回った頃。今日は早く上がれた二人。夕飯の時間だ。困った彼女が、「私なにか作りましょうか!」と立ち上がったが、空っぽの冷蔵庫を見て、おずおずと元の位置に戻った。トラファルガー・ローは自炊などしない。

「普段はご飯どうされてるんです」
「その辺で買うか、出前か、食わねえか」
「それこそ医者の不養生では?」
「出前でいいか」
「あっはい。なんでも」

近頃すっかり一般的になったウーバーイーツのアプリを開き、ローが一番早く来る店を適当に選ぶ。すぐ近くの洋食屋。ローはミートドリア、彼女はカルボナーラを選んだ。突然の雨で注文が増えたのか、出前は最遅予定時間ぴったりで運ばれてきた。

「職場では大丈夫です? 変な絡み方されてませんか」

カルボナーラを巻きつけながら、彼女が尋ねる。ローはドリアをスプーンですくいながら、「それは俺の台詞だ」と返した。面倒な揶揄いなどは時々受けるが、魔法使いがばれなきゃ何でも良い。

「私は平気です。みんな驚いてましたけど…」

そりゃあ、今までほぼ関わりのなかった二人が突然付き合い始めたら、そうなるだろう。実際には、トラファルガー・ローという病院の優良物件が、普通の女にお買い上げされたことへの僻みもあったが、それはまあ置いておく。

「そう言えば、魔法! ここなら誰にも見られないし、見せてくださいよ」

 途端にキラキラと光りだした彼女の瞳を見て、ローはやれやれと思った。本当にどうかしてる。しかし、彼女を茶番に付き合わせる対価は、『魔法を見せてほしい』。嫌でもやるしかない。

 スプーンを置き、テーブルに肘をつく。スッと意識を飛ばして一点に集中させる。すると、キッチンの方からタバスコがヒュンと飛んできた。ぐるりテーブルの周りを一周し、彼女のカルボナーラの上に浮く。ローが目で尋ねると、彼女はキラキラした目で頷き返した。
 自ら回転してキャップをとったタバスコは、逆さにひっくり返るとそのままカルボナーラに数的垂らして、キャップをまた締め、元の位置に帰っていった。
 ローがふうと息を吐く。彼女が盛大に拍手した。

「す、すごい…!!」
「落ち着け」
「なんか上達してません? もしかして練習しました?
「使えるようになったら便利だと思っただけだ」

ローはスプーンをとって、食事を再開した。といってもできるのは、今のようにものを動かす魔法くらい。彼女に一度やったような瞬間移動魔法や、ペンギンにやった口を封じる魔法は、まだ意識的には成功していない。

「いいなあ、便利そう」
「外では使えねえがな」
「トラファルガー先生がそんなことしたら、今度こそ病院がひっくり返りますよ」

彼女は笑いながら、タバスコのかかったカルボナーラを食べている。物静か、というわけでもないのに、ローは彼女と一緒にご飯を食べるのは嫌ではなかった。むしろ、コロコロと変わる表情が飽きない。喋りながら食うな、と、シャチに再三言ってきたのはどの口か。

「それ。いい加減やめねえと怪しまれるぞ」
「どれです」
「呼び方」
「ああ、確かに。院内ではいいですけど、普段もそうだと変ですね」

 彼女が、ボソッと「ローさん」と言った。ムズムズした。雨なのに花粉が舞っているわけもないと、ローは頭を払う。クールで聡明なイケメンは鈍感と相場が決まっている。

「――名前

ローが彼女の名前を口にする。途端に顔を赤くした彼女は、顔にタバスコをかけたのかと見紛うほどだった。照れ隠しに、「今度からは気をつけますね」と少々早口で言った。ローは、辛いものが苦手なら魔法につられてタバスコをかけたりしなきゃいいのに、と本気で思った。