齢・30歳。誕生日を迎えた、その日。魔法が使えるようになった。
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『30歳まで童貞の男は魔法使いになる』
よくある都市伝説の一つ。一度は耳にしたことがあるし、それは「バカな」と鼻で笑ったこともある。この科学に支えられた令和の時代に、何がどうして『魔法使い』になんてなるのか。そういうのはゲームの中の話だ、と、トラファルガー・ローは思っていた。
しかし、実際に自分が当事者になるとなれば、話は別である。
まさか浮くとは思わずに。
まず、リモコンは空に浮くのか。答えは否。下から強風でも吹いているならまだしも、冷房すらついていない部屋の中は無風に近い。また、この部屋だけ重力が歪んだ~なんて、バカな話があるわけもなく。
「……は?」
ローが困惑して、情けない声をだす。すると、プッツンと糸が切れたように、リモコンは床に落ちた。
魔法が使えるようになったと分かったのは、誕生日から一週間が経った頃だった。と言っても、その間に何度か不思議な力を感じていたが、バリバリに理系の道を邁進し、非科学的なものの類一切を小馬鹿にするエリート医師には受け入れ難かった。自分の気が変になったと思う方が、百倍は現実的だからだ。自分の目がおかしくなったとか、多忙故に精神を病んだとか、そもそもこれら全部が夢だとか、ありとあらゆる可能性を吟味した結果、自分が「魔法」という力を手に入れたことがわかった。受け入れがたいが、可能性のないものを消して、残ったものが何であれ、真実であることには変わりない。あのホームズも言っている。
例えば、あのシャーロック・ホームズが――というか、アーサー・コナン・ドイルが――「30を過ぎても、童貞を捨てられなかった男は魔法使いになるんだよ」と言ってくれれば、ローとて信じられたかもしれない。しかし、そんなことは誰も言っていない。だから受け入れられない。実際にそうなっているのだけども。
ローは仕事の合間を縫って、都市伝説の信ぴょう性や仮説について調査・検討した。空振りに終わったことは言わずもがな。しかし、読みたいと思った本は、勝手に本棚から飛び出し、ローの手元まで浮遊してくる。もう訳がわからない。
「なーんかクマやばくないっすか?」「……ほっとけ」
「いや、声低っ」
放射線科のペンギンが、いつもより一層濃いクマをこさえたローの顔を見て、ケラケラと笑った。ローは若く優秀な医師だったが、如何せん人当たりが悪いので、友人と呼べる人間は少ない。同僚ですら、業務連絡以外でローに話しかける人間はほぼいない。その数少ない友人1人が、ペンギン。3つ下の後輩であったが馬も合うし、(なぜか)ペンギンもローを慕っている。他に、小児科のシャチとも仲が良い。むしろ、主に2人としか飲みにもいかないし、世間話もしない。本人は別に寂しいと思っていないのでいいのだが。
「なあ」
「なんすか」
「クマって喋れると思うか」
「えっ ローさんの目の下のクマ?」
「ちげえ しろくまだ」
「いや、どっちも喋れませんけど? 冗談じゃないんすか」
そうだよな、知ってた。どうかしていた。ローは深く息を吐いた。この間、兄代わりであるコラソンと、ドフラミンゴ、そのファミリーたちに無理やり引き摺られるようにして、動物園に行ったのだが、そのときに見かけたシロクマが無邪気にローに話しかけてきたのである。
シロクマが話せないことは、シュガーでも知っていること。しかし、本当に可愛らしい声で、「キャプテーン!」と訳のわからない呼称で呼ばれたのだ。ローは泣きたくなった。シロクマは嫌いじゃないが、別に話したいと願ったことはない。こんなところで自分の潜在的な願いを知りたくはなかった。
「……ローさん、「何も言うな」
ローがそう言うと、まるで『お口チャック』とでも言うように、ペンギンのスルッと閉じられ、お互い目を見合わせて「は?」みたいな顔になった。
「ん? ンンンー!」
ペンギンが何か話そうとしているが、口は開かない。ローは即座にそれが己の魔法であることを理解する。困惑するペンギンをよそに、ローは興味深いという様子でペンギンの口が本当に開かないのか、顔を掴んで上下に引っ張ったりなどした。開かなかった。どうやら本当らしい。
「もう話してもいいぞ」
「ん、んん~っば! はっ? なに今の、」
「じゃあな」
「ちょっと、ローさん!?」
「あっ、あの、トラファルガー先生」
「あ?」
仕事に気持ちを切り替え、いつものように刺さる視線を軽く流しながら、長い足で廊下を歩いていれば、看護師に話しかけられた。何度か関わったことのある女。名前は胸について名札を見て「そんな名前だったな」と思う程度。こういうところがダメなのだが、本人は知る由もない。
「ちょっと、」
「仕事中だ」
「いいから!」
女に腕を引かれ、廊下の端に連れていかれる。こんなところに呼び出して、なんなのだ。まさか仕事中に告白か?と失礼なことを考える。この間コンマ2秒。
「用件は」
「あの、実はさっき見てしまって、」
「何を」
「だからその、トラファルガー先生が、その…」
じれったい。ローはじれったいことが大嫌いだった。時間は有限である。ただでさえ多忙な仕事なのだ。効率よく仕事をこなさないと何も終わらない。ローは家で過ごす時間も大事にしたいタイプだ。
「話がないなら、もう行くぞ」
どうやって話を切り出そうか、と悩む彼女を前に、付き合う義理もないとローは判断した。医者のくせに血も涙もないので、影では嫉妬に狂った同僚たちから『海賊』と呼ばれている。尚、シャチはそれを知って面白がっている。
「トラファルガー先生って魔法使いなんですか!」背を向けたローに、彼女が割と大きな声で尋ねた。柄にもなく焦ったローが振り返った瞬間にはもう、彼女の姿は廊下から消えていた。