安室さんの本当の名前を知ることのないまま3度目の冬を迎えた。私の心に埋め込まれた歪んだピースはいつの間にか自分が正しいピースだとでも言うような顔で私の心に居座っている、慣れって恐ろしい。もう、私は彼の名前を呼ぶ時にかすかな違和を感じたりはしないのだ。

「すみませんでした」

 下げられた頭、ミルクティー色の髪が私の部屋の白んだ蛍光灯の光の下で揺れる。

「謝らないでください、怒ってなんかいません」

 私がそう言って彼の髪に指を通すと、透さんはひどく悲しそうな顔を見せた。

 ことの始まりは、一週間前に遡る。その日、デートの約束が破棄されたのは約束の時間の1時間前だった。もちろん私は用意を終えて、なんなら待ち合わせ場所に向けて電車に乗っていた。そこに送られてきたメッセージはとてもシンプルな謝罪文だった。

 それについては全く怒っていない。彼との約束がなくなること自体は珍しいことではないし、確かにいつもは遅くても半日前には丁寧な謝罪文が送られてくるけれど、警察官という仕事柄、急な用事が入ることは日常茶飯事だろう。仕方のないことだし、それも承知で(本名も知らない訳だし)付き合っているモノ好きは私なんだから、彼が申し訳なく思う所以はない。そして埋め合わせは近いうちに必ず、という彼の言葉に楽しみにしてます、と呑気なメッセージを返した直後、不運にも彼と茶髪美人が宝石店に入る浮気現場に遭遇してしまう。これが昨日の出来事である。

 結果から述べると、それは浮気ではなく捜査の一環だった。女性の方は何やら海外にも勢力を伸ばしつつある暴力団体に繋がる女で、そのトップとも繋がりが深いという情報を得て、あのような捜査が断行されたらしい。まあその暴力団には若干思い当たる節があった。大東組との勢力争いに負けて埼玉に逃げ込み、そこから東南アジアに手を伸ばした団体がある。トップは60過ぎの老人だが、所謂ロリコンで10代・20代の女を選んで囲んでいるからお前も気をつけろと、娘にはやけに過保護な父に言われた。余計なお世話だと思ったが、それがまさかこんなところで。

 ――話を戻そう。とにかくそれは捜査で、彼の仕事で、私がその場で『どういうことだ』と問い詰めずに走り去ったのは正解だったらしい。彼の仕事の邪魔をしなくて本当に良かった。ただ現実に打ちのめされていただけだけれど、私が彼を問い詰める勇気のない臆病者で本当に本当に良かったと思う。

 「透さんの仕事を詳しくは知らないけど、少しは理解しているつもりです」

 潜入捜査もするような危険な仕事だ、ハニートラップを仕掛けるなんていうのは可愛いもんなんだろう。だから謝らなくて良い。謝られると本当に浮気されたんじゃないかという気になってしまう。疑っても仕方のない彼の気持ちを確かめてしまいたくなってしまう。言葉にしてよ、と面倒な女みたいなことを言いたくなってしまう。それだけは、そんなことは。どうしても嫌なのだ。

「じゃあどうしてそんな顔するんです、」

 彼の親指が私の乾燥した肌を撫でた。

「たまには普通の恋人らしく我儘でも言ったらどうですか」

 彼の言葉から察するに、普段の私たちは普通の恋人らしくないらしい。十分に理解している。それは私も彼も普通ではないからだ。

「……一度でも、たった一瞬でも終わったと思ったからです、透さんはあの女の人が本命であの人と結婚を決めて私は遊びで捨てられるんだと本気で覚悟したからです、!」

 だからこんな、涙を我慢した不細工な顔になるんです。ああ悲しくなんてないのに。

「では尚更謝らせてください」
「――それが貴方の我儘なら」

 頭上から優しい声が降り注いで、彼は彼が満足するまで私に謝罪の言葉を贈った。私が透さんが私にこうして優しくするのも私に愛を告げるのも私を心底愛おしそうに抱くのも全て捜査だったらどうしようと黒い雲を抱えていることにも気付かずに。

 風の噂で、中学の頃の友人が結婚した聞いた。大東組がちょっとした事件を起こして疎遠になるまで、彼女は私の良き友人でいてくれた。それを透さんに話したのはほんの気まぐれで、いつもより調子の良さそうな彼の様子を見て嬉しくなったからかもしれない。うん、多分そう。だから私としてはサラッと流してくれて構わなかったのだ。それが、「名前さんも結婚したいですか」なんて聞いてくるとは夢にも思わない。天地がひっくり返るかと思った。

「そんなに驚く質問ですか」

 僕らくらいの年齢で付き合っている男女間ではよくある話です。透さんは言う。至極もっともだ。でも、私と貴方は違う、と思った。

「いや透さんから結婚なんて言葉が出てくるとは思わなくて」

 警察官とヤクザの娘、社会的に認められるはずのないふたり。むしろ出会ったのが奇跡だ。私はこういう人生を生きてきた以上、そういうことはちゃんと考えているし、彼とは結婚できないなんてことは重々承知の上である。もう30になるかどうかというのに、結婚する気もない男と付き合っているなんて正気かと聞かれれば、それは正しい。私たちの行為は愚かだ、そして非生産的である。これは狂気の沙汰である。そうまで言うと過言だけれど、あながち間違いでもない。なんだろう、よく分からない。

「そうですか?僕は結婚したいと思ってましたけど、」
「えっ」意外。
「貴女と出会った時から、ずっと」

 東京に3年ぶりに雪が降った次の日も、我が家の鉄の掟である家族の会食は予定通り開催された。和食会席で、いつもよりさらに厳かな雰囲気に早速息が詰まっていた。

 昨晩は雪が降ったことに年甲斐もなくはしゃいだ挙句、透さんに酔って電話をすると言う失態を犯した。でも奇跡的に電話に出てくれた彼は私と二、三言葉を交わし、最後に優しくおやすみと言ってくれたのである。その余韻がなければ今夜の会食は家に切り替えてくれと言っていたはずだ。

 父は今日は珍しく仕事の話はしなかった。やめて欲しいと思っていたけど、いざなくなると違和感がある。父は少し青い顔をしていた。母はなぜか嬉しそうな顔をしている。本当にどうしたのだと聞こうと思った矢先に、父が口を開いた。大事な話がある、と。実に父の組長昇格が決まった日以来の『大事な話宣言』である。

「まず、大東組は今日を以って違法行為全てから手を引く」
「……は?」

 私の第一声はそれである。違法行為をやってこそのヤクザだ、合法ヤクザはもはやヤクザではない。何を言ってるんだと口を挟もうとした(母は知っているみたいだし)ら、また遮られた。

「二つ目は、名前の結婚が決まった」
「……は?」

 私の第一声はそれである。この男はついに危ない薬でも盛られたのかと真面目にそう考えた。今まで父は私を時に優しく時に厳しく、恋愛方面ではまあまあ過保護に育ててきた。恋愛干渉上等、俺の娘に手を出すならテメエを東京湾の藻屑にしてやるよ、とそう言うことを平気でやる人なのだ。でも結婚まで勝手に決められる謂れはないし、その前に合法ヤクザの問題も残っている。トチ狂ったのなら、それはそれで対処が必要だ。

「良かったわね、名前
「お母さん、私結婚なんて……」
「入りなさい、降谷くん」
「お父さん、私の話も聞いて」

 バンと少し強めに机を叩くも父は全く動じない。そりゃあそうだ。ヤクザのトップだもん。

「聞いたさ、降谷くんからな」

 だから私はフルヤクンと結婚する気なんてこれっぽちも、――

「ここは料亭だ、あまり騒ぐのは良くない」
「……透さん、?」

 黒のスーツをビシッと決めた安室透本人が、襖を開けて立っていて、父と母に当然のように挨拶すると当然のように私の隣に正座し、流れるような動作で、頭を下げた。

「この度は僕たちの結婚を認めてくださりありがとうございます」


 「…いつから考えてたんです、」

 不満に満ち満ちた私の顔を彼は笑った。安室透――改め、本名・降谷零というらしい。

「前も言わなかったか? 出会った時からさ」

 貴女のあれこれは杞憂だったという訳だ。──なんだかこの整った顔に肘鉄を食らわせてやりたい気持ちである。

 種明かしはこうだ。

 元々大東組は下部組織で手広く悪をやっており警察も一網打尽したいと考えていたらしい。父としては曲がり切った悪については反対だが、何分規模が大きくなりすぎて統率しきれない。そうやって広がった末端が起こしたのが以前話した平野という男の覚せい剤密輸事件である。それがどうもCIAに指名手配されるような反社会派団体と繋がっていて、そこからワールドクラスの大捕物に発展する事態になった。ここから芋づる式に大東組の末端組織は検挙され半瓦解。

 父の危うくなった立場につけ込んで、彼は私との結婚を持ちかけた。父はもちろん憎っくき警察に娘をやれるか!となったらしいが、大東組丸ごと彼の協力者になることを条件に本部の連中がやってきたことには目を瞑ると言う提案だったらしい。本部の部下は父にとっては家族も同然、仁義に厚い父がこの劣勢の中でその条件を飲まない選択肢はなかった。そして、本日めでたくその手続きが済んだらしい。

 大東組は公安警察・降谷零の協力団体となり、表向きは今まで通りヤクザをしながら他のキナ臭いヤクザの情報を集めて裏取って情報回せ、と端的に言うとこうなる。しかも日陰人生一転、正義の味方サイドになったことに本部の部下は意外にもノリノリらしい。ヤクザが聞いて呆れる。

「なんか寿命縮みました」
「長生きしてもらわないと俺が困る」

 そこで、あ、と声が出た。なんだ、と透さん…じゃなくて零さんが訊く。――俺、俺?そう、俺。今までは僕だったのに。

「確かにな」
「ついでに降谷零っていうのも大分違和感」
「そうだな、」

 結婚したら安室じゃなくて降谷になりますよって結婚する日に言われることなんてそう無い。私らしい、いい人生だと思った。胸が張り裂けそうなくらい幸せだった。

「気持ち悪いか?」

 別人みたいで。

「いいえ、」

 所詮は名前。ラベルじゃジャムの味は分からない。だからラベルが変わっても中身が同じならそれは同じものだ。等しく愛せる。

「零さんって名前も好きですよ、」

 やっぱりピースがパチンと嵌った。完成したジグソーパズルは美しかった。

何億光年先のきみの頭のなか