※幼児化トリップ
「おはよう」
尾形は柔らかな女の声に目を覚ました。
パチリと目を覚ませば自分の顔を覗き込む若い女の顔が見える。何をしているんだという嫌悪は特に感じなかった。
「気分はどう? 平気?」
続けざまにかけられる言葉は、まるで小さな子供に向けられるそれのように優しいもので、おおよそ自分より幾らも年上の兵士にかけるものとは思えない。そして自分が身を横たえている布団、こんなに柔からかな布団は東京の病院にだってないだろう。部屋の明かりは電球に飾りが被せてあり、部屋の様子もどこか西洋風であるが、迎賓館のような仰々しさは感じられない。(何もかもがおかしかった)
「え、本当に大丈夫?」
女は何も言わない自分に焦りを募らせたのか、尾形の頭を撫でるように更に顔を近づけた。それを払いのけようと伸ばした自分の手。それはもみじ饅頭のように小さく肉つきが良かった。おかしい。払いのけようと伸ばした手をそのまま自分の顔に持っていき、ペタペタと触ってみる。ヒゲもない、傷跡もない。髪も坊主頭に戻っている。
「やっぱり病院に、」
慌てて何か小型の機械を持ち出した女の腕を、尾形は掴んだ。よくわからないが、病院はまずい。軍に連絡が行く可能性がある。尾形は言葉に困って、“ごめんなさい”と口にした。子供とは往往にして謝りやすい生き物である。
「……体でおかしなところはない?」
尾形は頷く。自分は子供である。しかし、子供でない。女にそれを悟らせるのは得策ではない気がした。
物事を割り切って考えることは苦手ではなかった。尾形は自分の過去を思い出しながら、食事を作る女の背中を眺めていた。
女と話をしてわかったことは3つあった。1つ目は、自分は幼児化し女の家の前に倒れていたらしいこと。昨晩のことはとんと思い出せない。女は慌てて尾形に処置を施してくれたと言う。その時点でどこかに連絡を入れなかった彼女の行動は多々不審点があるものの、自分には好都合なことだったので追求はしなかった。
2つ目は、ここが明治ではないこと。これは女にとっては当たり前のことなので特に話はされなかったが、時折会話に混ざる言葉は知らないものがあり、女の服装も己が知るものとは大きく乖離していた。壁に掛けられた暦には自分の生きていた時代に百年足した数が並んでいる。2018年、こんなことがこの世の中にあるのならば、案外人生も捨てたもんじゃねえなと尾形は思った。
「百之助くん、出来たよ」
最後に、3つ目。女の名前は名前と言うらしい。
名前が出した皿には、卵を焼いたものと、緑の葉が乗せられている。隣には透明の器に白い固形物、それと橙色の液体が入った湯のみがあった。いや、ぐらすか。尾形はガラスを見るのは初めてだった。
「美味しい?」
尾形は頷く。良かったあ、と名前は顔を綻ばせた。初めて食べる味だった。
「私、あんまり料理得意じゃなくてさ」
へへへと笑った彼女、名前はよく笑う女だった。
食事を終え、名前は尾形に出かけようかと誘った。――出かける、つまりこの部屋の外に出ることを提案されている。尾形は顔には出さぬように暫し逡巡し、一つ頷いた。これが夢であるならばそれでも構わないが、それを踏まえても興味深い。名前は鼻歌交じりに奥の部屋から甥っ子の忘れ物だと男児用の服を用意し、尾形に手渡した。「私も着替えてくるね」1人で着られるかと聞かれたので肯定すれば、名前はまた奥の部屋へと引っ込んだ。子供の体は自分のものであるはずなのに、ひどく扱いづらかった。
最後に名前は自分のものと思われる毛糸の帽子を尾形の頭に被せ、手を繋いで外に出た。自分よりも大きな手に握られるというのはひどく新鮮で、ある種の感動めいたものを尾形は覚えた。名前はしきりに行きたいところはあるかと尋ねてきたが、この時代に何があるかも知れない尾形には答えようがない。どこでもいいを繰り返す尾形に、名前はチラリと悲しそうな顔を見せる。
「……隣駅に動物園があるんだけど、そこでいいかな」
尾形は頷く。今日何度頷いたかも分からない。女の悲しげな横顔の訳も分からなかった。
勿論、尾形は電車に乗ったのは初めてであった。誰も喋らぬ密室で女と手を繋いでいるのはなかなか刺激的である。尾形の不慣れな動作を、子供特有なそれと勘違いしたのか、名前は切符の出し入れから電車の乗り降りまで、アレコレと世話を焼いてくれた。子供とは実に便利な隠れ蓑だ。
動物園の門を潜り、象の大きさに圧倒され、きりんと言われる未知の首長獣に尾形は1人興奮を押し殺した。百年後というのは実に奇妙な時代になっている。お金を払えば、なるほどこれらの物珍しい(この時代で珍しいのかは知らないが)動物たちを見ることが叶う、と。自分たちの他に見物客は少なかったが、今の尾形と同い年くらいの少年は首回りに毛を生やした大型の猫を見て、ひどく興奮していた。
子供とはああやってはしゃぐのかと学習したところで、既に遅い。尾形の隣で、ちっとも表情を変えない子供を心配げに名前は見つめていた。
「楽しくない?」
尾形は首をふる。楽しいの感情の表し方が分からない。自分はこの空間を楽しんでいた。名前と繋がれた手にはもう気恥ずかしさも嫌悪も感じない。決して離れていかないその冷たい手に、安心している自分すらいた。でも笑うことのなかった子供の自分は、この慣れない顔でどうやって表情を変えればいいのかも知らないのだ。
名前はトイレから出ると、ベンチで大人しく座っている小さな背中を見つけ、そっと安堵の笑みをこぼした。好奇心に任せて、どこかへ行ってしまうような子でなくて助かった。そして売店横のワゴンを見つけ、少し肌寒くはあるものの、寒い中食べるのも乙なものかと、アイスを1つ買った。
「百之助くんお待たせ」
薄い赤色のそれを両手で握り、尾形は名前とアイスを交互に眺めた。これは何か、どうしてこれを渡されたのか。若干困り顔の少年に、#name1#は疲れたでしょうと微笑む。尾形は疲れていなかった。いや、日々野の山を逃げ回っている自分がこれしきのことで疲れていては世も末だ。自分は腐っても第7師団。積み重ねた過去と経験は、どれほど忌み嫌っても付いてくる。
「アイス嫌いだった?」
「……あいす」
尾形は復唱する、食べ物であるならば食べて見せるのが筋だ。刺さっている小さな匙を手に取り、掬って、口に運んだ。仄かな甘味、苺だ。冷たいがシャリシャリとしていて口当たりは悪くない。
「美味しい?」
尾形はまた頷く。名前はまた嬉しそうに笑った。
徐々に溶けて行く手の中のアイスに苦戦していた時、前方不注意だった尾形の前を職員が駆けて行った。尾形は咄嗟のことでややバランを崩し、手が塞がっていたこともあって後ろに倒れた。全く子供の体とはいうことを聞かぬものである。
「、危ない」
名前は倒れる尾形の下敷きになるように腕で受け止めた。子供の体で頭を打っては大事故にもなりかねないので助かった。「大丈夫?」尾形の顔を覗き込んだ名前は、慌てた表情をしている。
「平気です」
尾形は無残に地面に投げ捨てられたドロドロのそれを見やる。遣る瀬無い気持ちになった。
しかしそんな尾形をよそに、名前は尾形の無事を確認して、安心しきったという顔になっている。彼女の腕から僅かであるが血が出ていること、この能天気な女は気づいているのか。尾形は一言「どうして」と言った。元はと言えば自分の不注意。しかも知り合いでもなんでもない尾形のために怪我までする道理はない。
「どうしてって、……」
名前はゆっくりと態勢を立て直しながら、尾形の頭をたくさん撫でた。さっきまであんなに冷たかった手が燃えるように熱い。
「子供は守られて当然なんだよ」
ね、と笑う彼女。同じ生き物なのに、その姿は己の母親と似ても似つかない。何が違うのか、何が駄目だったのか。尾形は自分で殺したその命に、直接問いかけたい衝動にかられた。
「ごめん、「謝らなくていいの」
尾形はグッと唇を噛む。これが夢でも現実でも、ひどく残酷で甘美な時間であることに変わりない。
「――ありがとう」
尾形の頬を撫でて、名前はどういたしましてと口にした。
帰り道、再び尾形の手をとったその手はやはり冷たかった。
「帰らないと」
絞り出すようにして伝えた言葉に、名前は頷いた。
「良かった」
女は夕日を背に、それでも尾形の小さな手を離そうとはしなかった。
「百之助くんには、帰る場所がないのかと勝手に心配していたから」
ポツリポツリと繋がれる言葉は尾形の心を少し波立たせた。自分を育児放棄された捨て子だと思った。もしもこのまま捨てられてしまうのなら思い出を。哀れな少年に同情したのだと、名前は言う。あながち間違いではない。過去は永遠に己に付き従う影である。消えは、しないのだ。神様の悪戯で、時間を飛び越えてしまっても。自分からは離れてくれない。
「帰る場所があるなら良かった」
尾形は否定しなかった。あの時代に己の帰る場所はない。でもあそこにしか帰れない。尾形は今日最後の頷きを返した。
「暗くならないうちに帰りな」
尾形は小さくその手を握って、離した。名前は見送ってくれるらしい。尾形は背を向ける。夕日が沈みきる前に振り返って、最後に彼女の顔を見た。
「おやすみ」
サヨナラとは言わない。その眼差しも、冷たい手も、朝の焦げた卵でさえも、愛おしく思えた。
「おやすみなさい」