尾形が久しぶりに帰った家はガランとしていて生気を感じなかった。
 はて家を間違えたかと一度敷居を跨いで門を見るも、確かに尾形の表札がかかっている。間違いない。この家は空き家かと思う、それほどに人の気配がなかった。この家は尾形が立った1903年の冬から、今の今まで時間を止めていたかのように静けさに満ち満ち、空の花瓶は相も変わらず空のままで、庭の隅に植えられた白の小さな花はまだ咲いていた。ひとまず、尾形は荷を玄関に置いて居間へ向かった。

 この静けさは何か。遠い昔にここに置き去りにした嫁御はどこへ消えたのか。ああ、露西亜に行っている間に嫁に逃げられたなんて随分なお笑い種だ、とふんと鼻で笑った。他の誤魔化し方は知らなかった。その時、立て付けの悪い引き戸を勢いよく開ける音がして、女と思えないガサツな足音が聞こえてくる。

「ひゃっ、」

 尾形を見るなり、口をあんぐりと開けてガタガタと震えている間抜けな女が現れる。どこから走って来たのかすっり息は上がり、着物は若干着崩れている。我が嫁に違いないと尾形は思った。

 「手紙でもなんでも頂けましたら、駅まで迎えに上がりましたのに」

 名前は不機嫌そうに顔を顰め、嫌がらせのように尾形のお椀に山盛りの飯をよそった。全く餓鬼くさい女である。戦地の不味い飯を思えば可愛いもんか、と尾形は許すことにした。

「一昨日決まった」
「嘘ばっかり」

 ……まさに嘘である。尾形は黙った。

 名前には分かっていた。尾形と名前の住むこの町からも何人も戦地へ赴き、勿論帰らなかった者もいる。尾形が優秀な兵士であることを、名前は結婚前から知っていた。しかし、だからと言って戦場で死なない保証など、この世のどこにもない。軍人の嫁ならば決めなきゃいけぬ覚悟もあった。

 1905年の秋、ようやく戦は終わりを告げた。賠償金の有無を巡り東京では大暴動が起きたと北海道の片田舎にも新聞は届いた。しかし戦地へ夫を送り出した身として金や東京での騒ぎはどうでもよかった。

 彼人は生きているのか。来る日も来る日も、名前は報せを待っていた。隣近所は皆いついつに着くと報せがあったと嬉しそうに顔を綻ばせていたのも知っている。うちはまだか。そもそも生きているのか。十月を過ぎた頃、名前は諦めに似た絶望を感じた。尾形は死んだかもしれないと思った。今はその骨を探している途中なのではないかと。
 ――そんなことを考えながら生きていた矢先に、駅の売店のおばちゃんから名前は、尾形帰還の報せを聞く。(何の連絡もせず悪びれもせず)飄々とご飯を口に運ぶ尾形を、思いっきり引っ掻いてやりたい衝動に駆られた。

 湯から上がった尾形は縁側で膝を抱える背中を見て、小さく溜息をついた。

「いつまで拗ねている気だ」

 先ほどからだんまりを決め込む嫁の隣に腰を下ろす。こんなに近くで彼女を見るのはもう二年ぶりに近い。こんなにも細いもんだったろうかと頭を捻るも良い回答は浮かびそになかった。

「……拗ねてなどいません」

 ぐずぐずと消え入る声で話す女は、かつて憎悪の対象だった。いつも煮え切らない女たちの振る舞いは自然と自分の母親を思い出させるからだ。しかし、いい意味で女らしくない名前は、尾形と馬があった。ガサツで大雑把、大胆で思い切りの良い女。これでも尾形は名前を憎からず思っていた。でなければこうしてわざわざ死地から戻って来たりはしない。それを分かれ、とは口が裂けても言えそうになかったが。

「じゃあ顔を上げろ」

 額に手を当てて力を込めるも、精一杯の力で抵抗された。尾形は笑った。女が今どんな顔をしているのかは容易く想像できた。(なかなかいじらしいところもあるもんだ)無理ですという女の肩を抱く。力を込めればすぐに壊せるその体は己が守るべきものだと思った。

名前

 反射的に、名前は顔を上げた。尾形に名前を呼ばれたことなど記憶を探っても片手で足りる程度である。そのとびきり優しい声に釣られるように上げた顔に、尾形は素早く手を添え唇を合わせた。双方悪い気はしなかった。名前は泣くのも忘れて、尾形の顔を見入っている。酷い顔だと乱暴にガサガサの指が名前の頬を擦った。名前は尾形の手を取ってそれを己の額へとあてがった。尾形は女の好きなようにさせていた。

 女は会わぬ間に愛を育める生物だと聞いたことがある。名前も、例に漏れずそうなのだろう。

「寂しかったのか」
「当たり前です」
「怖かったか」
「ええ」

 恐れも寂しさも子供も恋慕も他の女と同じように感じる、泣きもする、喚きもする、それでも面倒だとは思えない。尾形は取られているのとは逆の手で女の痩せてさらに細くなった腰を引き寄せた。

「――でも、もう良いんです」

 懐が温い、名前はさめざめと泣いている。

「よくご無事で御帰りになって下さいました」

 尾形は女の黒い髪を撫で付けて、啄ばむように唇を求めた。女はそれに拙い動作で応える。いつか己はまた死地へ行く。その時までに自分と結ばれた不幸な女に残せるものはなんだろうか。せめて今宵のことは冥土の土産話にはなってくれ。

花と鱗