「ああ、……名前ちゃんのこと?」
俺が知りうる限りの情報を伝えると、店のオバチャンは拍子抜けするほど簡単に彼女の名前を口にした。
「知ってんのか?」
「知ってるも何もご近所さんよ」
お兄さん知り合いなの? すごい偶然もあるもんねぇ。
オバチャンは笑いながら皿をテキパキと片付けていく。この島──通称・サクラ島──に来たのは偶然でも何でもなく、むしろ、この島に来る前の島で名前をサクラ島まで乗せたという船を見つけたことが偶然だった。『だってよ、サクラ島なんて行くのは海賊と商船くらいなもんだ。あんな農業と酒しか秀でたところのない島に行く観光客はいやしねぇよ。だからよく覚えてたんだ』サクラ島で採れた野菜も、米から作る酒もみんな周辺の島に輸出されるんだ。行く必要が無いと髭モジャの男は言った。
聞けばサクラ島からの輸出を担当する商船の船長だと言う。その情報を辿ってサクラ島に来た訳だが、こうも早く見つかるとは予想外。ラッキーだったと思ってテーブルには少し多めにベリーを置いた。
「オバチャン、そんでその名前はどこに住んでんだ」
「……オバチャン?」
「オネエサン!」
「ここ真っ直ぐ行って、川を少し下ったとこよ」
「あんがとさん!」
「大雨になるよ、気をつけな」
「へーい」
店を出る。雨なんて降りそうもない晴天の空。何となく、彼女が昔刺繍してくれた太陽を思い出した。(…酒でも買って行くか)酒屋は何処だともう一度オバチャン改め、オネエサンに聞いて行こう。
「──火拳?」
思わず聞き返すと、魚屋のオジサンは楽しそうに頷いた。
「今は島中その話題で持ちきりさ」
あの火拳のエースがサクラ島にやって来た、と。たいそう楽しそうだけれど、相手は海賊である。もっと家を壊されるかもとか、お金を取られるかもと、恐るのが正解である。この島の人達の危機管理能力に関しては以前から問題視していたけれどやっぱりアブナイ。
「名前ちゃんも好きだろ? 火拳」
「なっ……!」
「新聞の切り抜き集めてるんだって?」
「ど、どこでそんなこと!」
「有名な話さ」
絶対に2軒隣のマオリさんだ。仲良しでよくお話するんだけど、何しろおしゃべりだからいつも店の常連伝いに私の情報が島中に拡散されてしまう。不拡散希望。
「…まあ、」
そりゃあ好きだけど。好きに決まってるけど。
だって火拳ってつまりは白ひげ海賊団・2番隊隊長エースのことで、あのエースくんのことなのだ。好きも何も、これはもはや愛に近いのではなかろうか。もちろん家族に対するそれ、という意味で。
「あらぁ、名前ちゃん」
「噂をすれば」
「マオリさん! 恥ずかしいから言わないでってあれほど、
「名前ちゃん、火拳の海賊にはあったかい?」
聞いてない。聞いてくれ。
え、エースくんに会ったかって?
「いいえ」
「もう家に行っちまったかもしれないよ」
さっき家を聞かれたんだ。マオリさんは大慌てで私の肩をバシバシ叩く。家を聞かれたって、そんな簡単に教えてはダメだ。もしもエースくんがエースくんじゃなく、成りすましの悪い海賊だったなら、今頃私の家からは貯めたお金まるごと何も無くなっているだろう。違うと願っているけど。
「帰るなら早くしないと」
「雨が強くなる」
この島の人は結構自由気ままだ。そこが好きだし、嫌いでもある。
「オジサン、このお魚もう1匹ちょうだい!」
「毎度!」
家に帰るまでに、小雨は土砂降りに変わっていた。グランドラインにある島ではよくあることらしく、最初は戸惑ったけどもう慣れっこだ。持っていた袋が紙袋じゃなかったのは不幸中の幸いか。兎にも角にも、マオリさんの言葉を聞いて焦った足は、いつの間にか小走りになっていた。この歳になって走るというのは、こんなにもキツイのか。ハアハアしながら家へと走れば、ドアの前にしゃがむ人影。オレンジのテンガロンハットに、黒のズボン。驚くべきことなのか、やっぱりと呆れるところなのか、上には何も着ていない。ワンピースのエースと聞いて真っ先に浮かぶあの格好そのままだ。
「……エース、くん」
徐々に小さくなる声。不安だったけれど、どうにか声は届いたらしく、顔を上げたエースくんは、濡れた前髪の隙間からキラキラと瞳を覗かせて、嬉しそうに、10年前と寸分違わぬ眩しい笑顔を零した。
「今、温かいものいれるから、これで身体拭いてね」
エースくんにタオルを押しつけ、拭き終わったらこれをとブランケットを渡した。前までどこにいたのかは知らないが、その格好では寒かろう。コーヒーを入れる。お気に入りの豆。おじさんがいつもサービスで粉にしてくれるのだ。
「砂糖とミルクは?」
「いらねえ」
「じゃあここ置くよ」
まだ身体を拭いている途中のエースくんの近く、テーブルにマグカップを置いた。私はこれでもかもミルクをいれたコーヒーを一口飲んで、テーブルへ。こうして見てみると、エースくんがあの”エース”になっている。背も私よりずっと高い。前は胸元までしかなかったくせに。嫌でも10年という時間を突きつけられて、寂しいような嬉しいような。ごちゃっとした気持ちは、びしょ濡れのまま放置されたショッピングバッグと同じ状態だった。
「名前」
「ん?……あ、拭き終わったらタオルは──」
そこに置いておいて。言い終わるまでに私は鼻をエースくんの分厚い胸板にぶつけた。痛い。
「……エースくん?」
「名前だよな、本当に、本物の」
エースくんの髪の毛からぽたぽた水がたれる。いくつになってもちゃんと拭けないなんてダメじゃないか。私ちゃあんと教えたぞ。
「本物だよ」
偽物なんていないもの。私は私。あなたはあなた。やっと会えたね。
「夢みてぇだ」
噛み締めるように、エースくんはもう一度私の名を呼んだ。それは10年前とは全く違う響きをしていた。愛しいものを呼ぶ声、母が父のことを語る声と同じ声。
「……会いたかった」
「うん」
私も。人生は出会いと別れしかないと言った。それでももう一度きみに会える人生が良いと思ってた。この想いはもはや愛に近い。そしていつか家族に対するそれとも違うものになると言い切れる。