細身ながら逞しい胸板。惜しげもなく晒されたその肌に刻まれるハートの刺青。指でなぞれば、彼は少し擽ったそうにに身を攀じる。猫みたい。いつもはふてぶてしい彼も、寝ている間はそんなことを思うくらい可愛いなんて。言ったら怒られそうだから黙っておこう。くるりと寝返りを打って、彼に背を向ける。今日は月が綺麗だ。
もぞもぞ動いてシーツを掛け直すと、後ろから伸びてきた手に捕らえられ、彼の懐に納まった。
「…眠れねぇのか」
寝起きの、掠れた声。ゾクリとする。
「起こした?」
「……いや」
ローは、抱え込むように、私の身体に腕を回した。寝起きであんまり頭が働いていないようだ。と言っても、まだ空も白んでいない時間だけど。
「さっき、起きた」
「ごめんね」
「別にいい」
どうした、って。彼は訊く。寝付けないだよって答えれば、そうかと返されまただんまり。上手く続かない会話のぎこちなさが、昔から大好きだった。
「見て」
左手の甲を見せると、彼はその手を取って、人差し指の付け根に触れた。小さく彫ったハートの刺青。左手のインデックスリングには、勇気を持って前に。という意味があるそうだ。私にぴったり。
「いついれた」
「前の前の島だったかな」
撫でるように、誘うように、慈しむように。彼は私の人差し指に触れた。刺青を入れたとき、感じた痛みが戻ってきて、私は指に触れていた彼の手を握り締める。
「おそろい」
「…誰と?」
そんな意地悪な質問には答えられないよ。
黙りこくった私を鼻で笑って、ローは私の握り締める手とは反対の手で、私の目を覆う。静かな声で、彼は言う。お前は俺を許していないと思っていた、と。彼はバカだ。許す許さないを恐れて、私を愛してるなんて。
「許した方がよかった?」
ハート──ドンキホーテ海賊団における、4人の最高幹部。かつて、その座に着いた男がいた。2代目コラソン。ドンキホーテ・ロシナンテ。船長・ドフラミンゴの実の弟。そして、私の兄である。
ドフラミンゴとロシナンテは、似ても似つかない、両極端にいる兄弟だった。優しかったという彼等の父と母。それに似て、ロシーはいつも慈愛と優しさの中に生きている人だった。誰かを気遣い、誰かのために笑って泣くことのできる人。彼が創り出す不思議な音のない空間の中で、私と彼はひそひそと秘密の話を沢山した。彼の声が、その中でしか聞けないこと。何も知らないながらに、彼の秘密は決して漏らしてはいけないのだろうと思った。特に、ドフィには。
ドフィは、優しくない訳ではない。生まれ落ちた瞬間にこの世を憎み、常に喪失したものに固執する人間だった。サングラスとファーで隠した顔は、怒り狂い泣き叫び高笑いする。彼は狂気の中に、ひとり生きていた。優しさを持たなかった訳じゃなく、それを表す術を知らない。不器用で、孤独な人だった。
私は、10の時、彼等に拾われ家族になった。それから7年。短いながらも、忘れられない時間を過ごす。あの狭い空間で、私とロシーは心を通わせ合い、ドフィは私に無償の愛を求めた。私がロシーに捧げるものを、彼は欲しがっただけのこと。彼は欲張りで、傲慢で、寂しがり屋なのだ。
「コラさんは、いつも名前を気に掛けていた」
静かな暗闇の中に響くローの声は、遠い夜に私を寝かしつけた彼の囁きにそっくりで。ローもまた、私と同じように彼と短く濃い時間を過ごしたのだと思う。
「死ぬ前、コラさんは俺に言った──『惚れた女との約束なら死んでも守れ』と」
じんわり、ゆっくりと。道に積もった雪が溶けて流れ出してゆくように。ロシーとの温かい記憶が、私の瞳から溢れ出す。
必ず戻る、と言った。迎えに来る、と。だからここで耐えろ。確かにロシーは私に約束した。短い小指を絡ませて、涙を堪えて頷いた私に、やさしいキスをくれた。大好きだった。彼の唇は冷たくて、もう二度と会えないのではと私は不安に駆られてひとりで泣いた。それが現実になるとは、夢にも思わず。
「すまなかった」
私を抱くローの腕の力が強まる。変わらず塞がれたままの視界。その向こうで、ローが泣いているんじゃないかと、私は不安で泣きそうになる。ロシーと共に私を置いていったこと、ロシーを結果的に殺してしまったこと、私との約束を果たせなかったこと、ずっとこのことを言えなかったこと。謝っても仕様のないことを、ローはたくさん謝った。許さなくていいと何度も言った。やっぱり泣いてるんじゃないかと、私が彼の手を強く握ると、しっかりと握り返された。
ロシーと過ごした7年間。彼を待ち続けた13年。人生の大半を共に過ごした長兄が、インペルダウンへ連れてゆかれた。ドフィがロシーを手にかけたことは知っていて、それでも彼は私になんら態度を変えなかった。ロシーを殺して心を痛めたように、私を守り続けることで心を砕く。彼の孤独を、私はいちばん近くで見てきた。
ローと、麦わら。一緒に復讐を果たした時、ドフィは笑い、心でひとり泣いたはずだ。今までありがとう、と私が告げれば、見たこともない顔で、ドフィは青い空を仰いでいた。餞別に、今は失き兄弟ふたりに贈るはずだった私の命は、こうしてローに攫われる。
そっと、月の明かりが差し込む。視界が闇から解放される。振り向いてローを見ると、そこに涙のひとつもないのを確認して安堵の溜息を零した。彼の方に向き直り、月に背を向けた。絡まった指先は一度離れて、また緩く重なる。ロー。名前を呼べば、下がる眉。悲しみに潰れた顔は、とっくの昔から愛おしい。
「もういいんだ」
私は、君を許さない。それを、彼が望むから。でも、何も、私たちの手には返らない。だから前を向こう。勇気を持って、私の左手が未来を導いてくれるはずだ。悲しみを、ふたりで半分ずつ背負って歩く。辛いときは、ローを頼るから、そのときは君が持ってくれればそれでいい。息を整えて、前を見て。涙を拭いたら、また背負って歩くから。ずっと、やさしい思い出を抱いて生きていよう。ロシーが、私たちに残してくれた。
「ロー」
『ロシー』
「今夜は月が綺麗だよ」
だから、口づけて。この空が白むまで。
「今なら死んでも構わねぇよ」
『俺に死ねってか?』
『?どういう意味』
『次の満月に教えてやるさ』
「ねえ、それどういう意味?」
「……意味なんてない」
接吻。君たちは優しい嘘つき。
ためらい傷は喪失より深く
song「鮫」by 天野月子