家に戻るのは、もう随分久しぶりのように感じる。家、と呼ぶのも憚るほどこの家に帰った回数は少なく、自分でもよく場所を覚えていたなと思う。玄関前に降り立つと、家の戸は開けっぱなしになっていて、中から楽しそうな笑い声が聞こえた。どうやら、いることはいるらしい。帰ると伝えていなかったので、驚かせてしまうかもしれない。またそれも一興。私も久しぶりの帰宅に年甲斐なくはしゃいでいる。
帰ったことを告げようと玄関に入ると、奥から妻と中年の女性が顔を出した。じゃあねと妻に手を振る彼女は、隣の家の奥方だったか。記憶は薄い。すれ違いざまに会釈をし、廊下に残った妻に向き直る。
「今、帰りました」
長いこと待たせ過ぎてしまった。今がいつかも定かではない。それほど必死だったのだ。妻は、少し驚いたように目を丸くして、やがて静かに頷き微笑んだ。口には出せない、自分にはもったいないくらいの美しいひとだ、と。
家の中はさほど変わっていない。と思う。前がどんな風だったかなどあまり覚えていない。この人といると心臓が速まって、緊張してしまうから周りに目を向ける余裕がないのだ。目もろくに合わせられず、抱き合うどころか、手を繋ぐことすらままならない。彼女はそんな私を笑った。口元に手を当てて、ガチガチになった私の手を反対の手で取り、ゆっくり、と囁く。『ゆっくり、参りましょう』出征直前に縁を結んだこともあって、共にいられた時間は短かったが、あの心地は今もはっきりと覚えている。あの時の彼女の手の冷たさ、生ぬるい風が吹いていたこと。彼女を、いつまでも愛し、守ろうと決めた夜のことを。今でもはっきりと。
「おかえりなさいませ」
名前は、縁側に茶を持って来た。私は妻の声に返事をして、先に縁側に腰をかけた。風鈴の音に耳をすませる。庭が綺麗に手入れされたことは流石の私にも分かった。花が咲き、水が流れる。心落ち着く良い庭になった。花が好きで、土いじりは得意だと話していたのは、結婚当初。名家の令嬢に似合わない趣味だと思った記憶が蘇る。私がいない間も、この家を守る傍ら、このように美しい家にしてくれたことが嬉しかった。縁側に当然のように置かれた座布団が二枚。空いている方に妻が腰を下ろす。湯のみが一つ、二人の真ん中に置かれた。
「今年も、綺麗な花が咲いたんです」
名前の声に頷き、風に身をまかせる。
「とても綺麗です」
隣を見れば、妻は風に靡く髪を片手で押さえ、遠くを見ていた。
「貴女も、ますます綺麗に」
妻が微笑む。戦場に身を置いた者として、当然のことだが、こんなにも凪いだ気持ちは久しい。私は何より彼女が愛おしかった。
この家で、夏を迎えるのは初めてだ。結婚しここに移ったのは、一九〇三年の秋、夏も終わり、庭の紅葉が赤く染まった頃だった。一九〇六年夏、もう三年の月日が流れた。三年経てば人も世も変わるとは聞いたが、ここは何か時が止まったように変わらない。もちろん庭が美しくなったことを除けば、だ。
私が思案を巡らす間、妻は何も言わず、瞼を下ろして考え事をしているようだった。陶器のように白い肌、整った目鼻立ち。一度お会いした彼女の母上に瓜二つだ。三年経って、彼女はまるで変わらない。私は三年経っても、彼女に声を掛けて、触れて、この腕に抱く勇気が出ない。それなのに気持ちは至って穏やかで、心臓も速まることはない。情けないことに心に、体が追いつかないのだ。
「勇作さん」
彼女が、私を呼ぶ声が好きだった。なんですか、と返事をする。彼女は尚も悲しそうだ。私の方をちらりと見て、またすぐに庭に目を戻してしまう。堪らず、彼女の手に自分の手を片方重ねてみる。表情は晴れない。
「待ちくたびれてしまいましたよ」
ぽたり、ぽたりと涙が伝った。白い肌を伝う透明のそれは、西洋の絵画を見た時と同じ衝撃だった。
「すみません、……名前、泣かないでください」
淋しい思いばかりを、させているという自覚はあったのだ。物憂げな表情、濁った瞳、伏せられた睫毛の先に至る全てが言葉にしない彼女の想いを雄弁に語るから。しかし、隣にいながら涙も拭えない自分では、彼女の寂しさは埋められない。どんなにあの温もりを分け与えたくても、この右手は空を切る。
旗手としての務めを果たして、凱旋したその時に。
私たちは、かつてそう約束していた。彼女は子供は三人欲しいと言った。一番上が女の子、二人目は跡継ぎになる長男。三人目はどちらでもいいけど、勇作さんに似た子になったらきっと可愛い、と。それに私は、#名前に似る方が良いと言い、どちらにせよ暖かい家庭を築こうと誓った。
「名前、すまなかった」
約束は守れない。男としてあってはいけないことだ。しかし、これだけは。こればかりはどう仕様もない。生きた証は残せなかった。だからせめて貴女の頭の片隅に。そう願う私は浅はかで、もう時間があまりない。真夏の温い風に吹かれて、風鈴がちりんちりんと音を奏でる。
「もう行かなくては、」
別れの夕は早い。縁側から立ち上がる。湯のみのお茶は空っぽになっていた。花は変わらず揺れていて、もうすぐ夕顔が花を開く用意をしている頃合いだろうか。時の感覚も、今となってはあまりないのだ。
「行ってしまわれるんですね」
ああ、と頷く。軍帽を被り直し、玄関に向かう。戸は開きっぱなしになっていた。妻は立ち上がらない。
「また次の夏に」
この戸を開けておいてくれるなら。小さく言い残して、敷居を跨いだ。私の声は、名前に届かない。
「ごめんください」
大きな声にハッとして、立ち上がった。玄関に向かうと、戸は開きっぱなしになっていて、その向こうに軍服姿の兵隊さんがひとり。ご無沙汰しておりますと軍帽を取ったその人は、百之助さんと言って、亡き夫の腹違いの兄に当たる方だった。勇作さんは彼のことを大層お慕いしていたようで、私も話はよく聞いていた。一度結婚の際にご挨拶したきりだったが、あの頃とさほど変わっているようには見えない。ご無事でなにより。自然にそう思えたことに安堵した。
「今日はこれを届けに参りました」
渡されたのは土に塗れた軍帽。勇作さんのものだとすぐに分かった。私が施した小さな刺繍が、帽子の裏にある。彼はこれを見て、戦場で私を思い出しただろうか。ここに縫ったのと同じ花が、今、庭に咲いている。彼が見たら、なんて言うだろう。
「ご苦労さまでございました」
百之助さんは頭を下げて、戸を閉めて出て行った。ガタンとなる音が虚しい。私は彼の匂いも失せた帽子を抱いて、もう一度だけ泣いた。
どうしても絶えない愛がある
song「おばけになっても」by ふぇのたす