暖かな春は終わりを告げ、季節は音もなく梅雨へと変わってゆく。集会中に降り始めた雨は強まり、窓ガラスに打ちつけられる。部活が始まる前に傘を取りに行こうと、私は教室へと歩を進めた。数日前に置きっぱなしにした折りたたみがあったはずだ。すれちがう友だちにまた明日ねと手を振り、D組の戸を引く。ガラガラと、少しうるさい。教室の前の方でコソコソとゲームをやってた2人組がぎょっとした顔を上げる。いけないんだ、先生に見つかったら没収。私が先生じゃなくて良かったね。

 その横を抜け、窓際、前から3番目の席。私の机に座って、長い足を組んでる後ろ姿。どくどくと心臓が嫌な音を立てる。自分の背後で足音が止まったことに気付いたのか、彼はゆっくり振り返り、Tシャツにバスパン履いた私を見た。

「何、……してるの」

 カチャカチャってボタンが押される音。よしとかうわあとか、喧しい声。静かだから何もかもが聞こえちゃう。私の心臓が立てる嫌な音も、きっと彼には。

「待ってた」

 何を、誰を、どの瞬間を。彼は言わなかった。私はギギギと椅子を引いて、机の中に突っ込んだまんまの紺色の折りたたみ傘を取り出した。早く行かなくちゃキャプテンに叱られる。別にいいけど。

「……来ると思った」

 雨が降る日に、彼は、何を待っていたのか。何が誰がどこまでが彼の思い通りだったのか、私にはわからない。でも彼の言葉を聞いて私は笑った。手に持った傘を彼に差し出し、「使いなよ」「は?」。

「雨は苦手でしょ」

 今日の雨は、朝のお天気お姉さんも予想できてなかった。折りたたみを常にカバンに入れてる人間じゃないことは聞かなくたって分かる。だから、ほら。受け取れば。

「……いつの話してんだ」

 彼は私の手から傘を取ると、それをパコンと私の頭に乗せた。そしてゴトリと傘が私の頭から滑り落ち、彼は足を伸ばすと出口の方へ。またね、と声をかけると彼はカバンを持ってない方の手をヒラリと上げた。


「船長、雨です!」

 誰よりも早く、雨が降るとアイツは俺のところへ駆けてきた。少しだけ嬉しそうに、声を弾ませて、目を逸らしたくなるような笑顔を引っ提げて。「見りゃあ分かる」小窓は既に雨に濡れているし、そうでなくても朝からうざったい湿度だ。嫌だ嫌だと思いながら天気ばかりはどうしようもない。

「今夜いっぱい降るそうですよ、知ってました?」

 ふふん。その自慢げな顔に、知らねーよと額を小突けば、彼女はやったあと、何が嬉しいのかまた笑った。

「大体、いつもいちいち雨を知らせに来て。嫌がらせか」
「まさか!」

 名前は、腰に巻いたツナギをヒラリと翻し、そんなわけないです!と敬礼をして出て行った。急にガランとした船長室。嵐みたいなバカのせいで、何考えてたか忘れちまった。

「キャプテン、雨だって名前から聞いた?」

 管制室へと向かうと、ベポが俺に問いかける。ああと頷くと、ニコッと笑ってまた地図とにらめっこ。

「雨雨って、何なんだよ」

 誰にとっても嬉しいものじゃねえことは確か。俺は特に水は嫌いだが、いちいち言われると気が重くなる。名前にペボ、シャチやペンギンの野郎もニヤニヤしながら『名前から聞きました?』って。俺が何した。

「えっ、キャプテン知らないの?」
「何を」
名前ね、雨の日にキャプテンが襲われたりしたら大変だから、絶対イチバンに知らせなきゃって」

 近くにいれば安心だからってさ。器用な手つきで海図に線を書き込みながら、シロクマが笑う。あのバカは、やっぱりバカだ。椅子から立ち上がる。雨の日ほど、暇な日はない。

「そういえば、名前、買い出し頼まれてたなあ」

「おい」

 振り返って俺を見つけた名前は、ピチャピチャと長靴のまま俺の元へ駆けてくる。いちいち走るな、甲板が滑りやすい。海にでも落ちられた日には助けられねえ。

「どこ行くんだよ」
「市場まで包帯と消毒を買いに行くだけですよ?」

キョトンとした顔。ふざけてる。

「これからどっか行く時は俺に声かけろ」
「……わかりました、けど、」

 なんでって顔してる名前から傘をふんだくる。名前が持ってたら背中の骨を痛めちまう。生憎雨の日に外出する習慣はないもので、傘なんてもんは持ってない。相合傘かーイイすねーとか言ってたどっかのペンギンはあとでバラす。

「襲われたら危ねえだろ」

 近くにいれば安心だっけか。まあそれは概ね同意だ。近くにいるに越したことはない。

「なんでそれを!ペンギンさんですか?、あっペボだ!もう、言わないでって言ったのに!」

大体俺は、雨では大して弱くならない。能力者が危険なのは水に浸かった状態だ。雨は嫌いなだけで脅威じゃない。前に一度言ったような気もしたが、やっぱり分かってなかったか。まあいい。一生勘違いしとけ。

「ばぁか」


 校舎裏のベンチは、昼寝をするのに丁度いい。背もたれがいい具合の高さなのだ。遠くで鳴ってるチャイムを聞き流し、静かに眠る彼の隣に腰かける。彼は、昼休みの終わりはおろか、私の存在にすら気付かない。今頃、先生が私と彼の名を呼ぶだろう。あれいないのかって。そうしたらクラスの子たちは前の時間まではいましたってきっと言うから、サボってることがバレるのは時間の問題だ。

 校舎裏のベンチは、授業をサボるのに丁度いい。2階以上の窓からは死角で、このベンチが見える廊下の先は剣道場と柔道場しかないからこの時間に滅多に人は通らない。そんなことまで考えてサボる必要はあるのかなんて愚問。こんな天気のいい日に教室で授業を受けるなんて馬鹿みたいだ。

「ロー」

 彼の名を、私は知らない。ちゃんと覚えてないけど、見たことも聞いたこともない名前だったことだけは記憶してる。彼はトラファルガー・ローではない。当たり前だ。私も名前ではない。その名前はなくなった。今は、今の父と母にもらった名前がある。誰もがその名前で私を呼ぶ。先生が点呼をとる時も、テストに氏名を書く時だって。私と、彼以外の全員が、私を違う名前で呼ぶのだ。

「……愛してたのよ」

 言葉とは想いそのものだ。人は嘘をつく、体のいいお世辞だって口にする。だけど、言葉になった想いは命をもって、ずっとこの世界に残ってくれる。だから口にしなかった想いなど、なかったものと同じだ。朽ち果てて、誰にも知られずに埋もれてゆく。彼のことは愛していた。そう言葉に、しなかっただけで。あの島で、灰になる瞬間までずっと。心密かに、想っていた。ローさんが、私にそうしたのと同じように。


 出航するように告げると、船員全員が下を向いた。アイアイキャプテン!と答えるはずのペボも、顔を上げずに泣いている。涙を流せるのはヒトの特権。そんな烏滸がましいこと、一体誰が決めた。

 重い足を引きずって甲板に出た。湿った空気が頬を撫でる。遠ざかってゆく島に目をやれば、今だに山の一角から黒い煙が立ち上っているようだ。ボッコりへこんだ山。先の爆発から火が山に燃え広がり、町の方も被害が出たらしい。消火活動に走り回る男たちはまだいたが、直に降り出す雨がすべて洗い流してくれる。誰かの心に、痛みだけを残して。

 ポツリ、雨だ。ポツリ、ポツリ。次第に強まる。まだ、足音は聞こえない。ポツリポツリ。まだ、階段を上る音は聞こえない。もうずっと、鼓膜が破れそうな爆発音が響いてる。雨だ。誰かが空の上で泣いているのか。阿呆らしい?バカが移った。ポツリ。雨は嫌いだ。ジメジメと鬱陶しい。体が濡れるのも好きじゃない。ポツリ。ガタンとドアが開き、顔を出したのはペボだった。悲しそうな顔で俺を見るな。雨が降ってる。痛み以外、何もかも洗い流される。彼女の長靴、足跡、紺色の傘。もう見えない。彼女と過ごした短いけれど優しい記憶だけを手元に残して、あとは全部流れてゆけ。

「キャプテン、雨だね」
「……ああ」

 どっかに行くときは俺に声をかけろって言っただろう。雨が降ったら俺に知らせに来るんだろう。近くにいたら安心なんだろう。俺は雨じゃ弱くならない、って、前にも言っただろ。


 目を開けて、ぼんやりする頭を振りながら、もうそろそろ行かなくてはと思った。いつまでも外にいると怒られた時に面倒だし、身体も冷えてきたし。立ち上がると、反射的に腕を掴まれた。手首をへし折るような勢いで、彼は私を掴んだ。「起きてるの?」無視。私は腕だけ取られて立ち尽くす。私はあんまり頭が良くないから、どうしたらいいのか知らないよ。

「勝手にどっか行くな」

 ローはゆっくりと瞼を開けて、私を見た。海賊王さながら、強い瞳だった。それなのに、言ってることは駄々を捏ねる幼稚園児と同じ。勝手にってわたしもう彼のものじゃないのにな。悪い気はもちろんしないけど。「ごめんね」でもほら、もう戻った方がいい。さっきまでのお天気が嘘みたいに分厚い雲。雨が降りそうだよ、船長。

「それと、俺は今でもお前を愛している」

 ああ、そっか。貴方は待っていてくれたのか。

やわらかな心臓が恋と呼ぶので

song「A NATURAL WOMAN」by アレサ=フランクリン