夜とはつまり、神の生きる時間のことを言う。嘘か本当か分からないことは、全部真実として生きてきた。鶴見に妻はいないが、娘はいた。それが私。母は美しい女だったとか、優しい人だったとか、実は日本の生まれではなかったのだとか、父の話す言葉は何もかも真実味が欠けていて嘘くさい。眠る前に優しい声で遠い異国の童話を語るように、父は母の話を私にした。だから、私はそれを真実として、どんなに嘘くさい言葉も飲み込んで、生きてきたのだ。
夜になるとみんなが眠ってしまうから、恥ずかしがり屋な神様は夜になるとひょっこり地上に降りてきて、悪いことをしてるやつはいないか見て回るのだ。
これはかつて、私に父が言ったこと。父は仏教徒でも神道家でもなく、何を信じてるのかてんでわからなかったが、よく神の話をした。今となっては、あのひとが神を信じているなんて笑えるけれど、それでも、幼かった私はそれもそっくりそのまま飲み込んでお腹を膨らませた。もう十年以上昔の話。
私に背を向けて眠る彼に、そのことを話すと鼻で笑われた。分かってはいたけど、幼気な少女の思い出話を踏み躙るのは、褒められた行為ではない。
「相変わらず、ひどいひと」
私のこと、馬鹿だと思ってらっしゃる。これでも女学校の学位は悪くなかったのに。この男に、情緒やそれを求めるのはお門違いか。可愛い頃もあったんだな等と言われても、鳥肌が立ってしまうのだけれど。
「神様なんていねぇよ」
「今そういうことを話してるんじゃありませんよ」
神様がいるとかいないとか、神じゃなくて仏だとか。そんなことはどうだっていい。お腹の膨れない話はもうたくさんだ。違くて、私が言っているのはもっとくだらないこと。馬鹿だねとか恥ずかしいとか、そういう口が腐ってしまうような睦言と共に交わされるべき会話なのだ、これは。
「もう黙れ」俺は寝る。
──散々彼是としておいて、自分勝手な御人。ひらりと振られた手が闇に慣れた目に映る。私もひとつ欠伸を零し、それでも目を瞑るまいと必死に抵抗するのは、この時間が他の何にも変え難く、私の生きる時間において大切なものであるからに他ならない。
「尾形さん」
この男と、私が共にいられる時間は短い。だからこそ、彼は私を壊してしまえと抱くのかもしれないし、私はいつまでもどうにもならない言葉を交わしていたいと願うのかもしれない。「百之助、さん」人差し指で、浮き出た彼の背骨をなぞる。ビクリと反応したところ、本当に猫みたい。
すると突然尾形さんは、体を起こして、私の顔の両脇に手をついた。暗い部屋にぼうっと浮かぶ顔に、にたにたと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「こんなこと、神様に見られたらどうすんだよ」
ベロりと彼が唇を舐める。やらしい男。
「見られなきゃあいいんです」
私は腕を伸ばして、彼の太い首を引き寄せた。首筋に、彼の、熱い吐息。
「どうして欲しい?お前が誘ったんだ、言えよ」
ほら、早く。私を急かす楽しげな瞳も、堪らないなあなんて思いつつ。そっと耳元で、触れて抱いてと囁く。あとどのくらい、夜は残っているだろう。
「淫乱」
今度はべろりと私の耳を舐めて、尾形さんはそのまま私の身体に触れた。また一刻、朝が近づいてくる。彼とこうして過ごすことの出来る夜は、あとどのくらい残っているのだろう。
夜とはつまり、神の生きる時間ののことを言う。嘘か本当か分からないことは、全部偽りとして生きてきた。鶴見に妻はいないが、娘はいた。それが名前。美しい女だった。いつも鶴見の横で控えめに笑っているくせに、時折ひどく憎悪に充ちた瞳を覗かせる。後にも先にも、あれほど俺の興を引いた女はいない。どうしても手に入れたいと欲に駆られた。時と身体の赴くままに、幾重もの夜を共に重ねた。
自動車から降りてきた鶴見は、ふたりを見るなり妖しく笑った。珍しいところで会った、と言っていたが恐らく誰からか聞いてつけていたと思う方が自然。何をしているのかな、とあくまで紳士的な態度を崩す気配のない父親を前に、名前はぴくりとも動揺せずに滔々と嘘を言う。散歩をしていたなんてお伽噺、誰が信じる。
「旭川の街はあまり歩いたことがないから、尾形上等兵に案内して頂いたの」
「……それは、世話をかけたな」
ぽんと尾形の肩に手を置き、鶴見はふたりを見ると、またニヤリと笑って車に戻った。諦めたのか、放置することにしたのか、機会を改めたと思うのが一番納得ゆく。黒い煙を吐いて進む、西洋の乗り物。新しいもの好きの男にお似合いだ。
「よく俺の階級知ってたな」
「また、馬鹿にして」
少し拗ねたような、安心したような、気の抜けた笑みが、たまに瞼に蘇る。
月明かりに目を向けると、何故だかあいつの顔が思い浮かぶ。今頃、どんな男とどんな風に生きているのか。死んだような瞳で船に乗るあいつを見送ったのは、もう2年も前の話だ。泣き腫らした瞳が痛々しい。態とらしく苦痛に滲ませた鶴見の顔も、はっきりと頭の中にある。
名前が俺と共に生きられないことなど、出会う前から分かっていた。気付かないふりをしていた訳でもない。お互いに、いつか別れが来ることも知っていた。それでも共に在ることは、そんなにおかしな話か滑稽か。笑いたいなら笑えばいい。何をしたって、彼女はもうこの雪の降る街には帰らない。
ごみだめの中で死んだ犬を見て、その横をすり抜けた。わあっと叫べば隣部屋に筒抜けになるあばら家は、ふたりの愛の巣。いつも冷たい愛を暖めあって過ごした。彼女はぼろぼろの畳の上に薄っぺら蒲団を敷き、よくくだらないことを話した。半分聞いていないから、内容なんて覚えちゃいない。実際ひとりで同じように寝転がっても、思い出せることなんてない。ただひとつ、あの時間は愛しいものだったと、その記憶だけが俺をここに縛り付ける。
「私、貴方のために生きてゆくことは出来ないけれど、貴方のために死ぬことくらいはできるのよ」
あの日も、彼女は俺に告げた。俺はそれをいつもの様に鼻で笑って、終わりを悟った。これまで、俺の人生に関わったあらゆる人の死を願ったが、彼女の死を願ったことはない。誰かのために死ぬ、ということは誰かのために生きることと同じくらい難しいが、浅はかだ。
「ごめんね、百之助さん」
絡む指先、触れ合う素肌。寒い夜は、肌を寄せ合っていればそれも感じない。
「生きろ、」
生きていれば、出会いもあるし別れもある。世の道理。誰もが通る。生きているから、寒くも感じる。
「──生きていてくれ」
あいつは、名前は、俺の幸せそのものだった。呪われた人生に、彼女と出会えたことは幸か不幸か。名前は最後に、ずるいひとだと呟いて微笑んだ。
「……あら、考えごと?」
精油に塗れた手で、女は俺の胸に触れた。不快感を覚えたが、口を動かすのも億劫でそのままに。女はぺたぺたと俺に触れ、分厚い唇で弧を描いた。
「何考えているか当ててあげる、昔の女でしょう」
黒い髪、大きな瞳、雪のような白肌。部分ひとつ取って見れば、女は彼女によく似ている。
「……図星ねぇ」
鼻につく笑い方。よく喋るところまで似ているなんて、ますます不愉快。殺してしまいたいと思った。理性がすぐにそれも押し込める。
「旦那さん教えておくれよ、貴方の心、何処の誰にやったのか」
また朝が来る。太陽が、この街の雪を少しずつ溶かしてゆく。俺の人生に、彼女の居ない夜は、あとどのくらい残っているだろう。
往き残った夜に生きるため
song「アノミー」by amazarashi