空はどうして青いか知ってるか。
私が知らないわと首を振ると、彼は白い歯を見せて得意気に言った。『空の青は、海の青だ』海の青さが映ってるんだ、と彼があんまり自信満々に言うもんだから、それが答えかとひどく納得してしまった。じゃあどうして海は青いのか、と私が聞くと、そんなこと知るかと彼はマントを翻す。私がむくれたのを横目に見ながら、いつか分かるさ、と彼は言った。
『いつかっていつ?』
『この偉大なる航路の果てに辿り着いたとき』
そこに行けば、この世の全てがある。彼も、彼以外の海の男はみんなそう言うけれど、それってあんまり信じられない。私は陸の、グランドラインのぽつんと浮かぶ島に住んでいて、私にとってこの世の全てがこの島にある。だから、海賊王が辿り着いた場所にある、この世の全ては、所詮、海賊にとって重要なナニカでしかなくて、私にとってはあんまり大切なものでは無いのだろうと思う。勿論、もしも私の大切な人が海賊でなければ、の話だけど。
つまるところ、海の青さの理由は偉大なる航路の果てには隠されてない。きっと分からない。それでも、彼がそう思うのなら、そこに答えがあると信じているなら、それを黙って私も信じてみようと、あの時の私は思った。今日は、とても綺麗な空だから、そんな少し遠い日を思い出す。
「名前チャン!今日は珍しい魚が入ったんだ、1匹どうだい?」
魚屋のおじさんが、大きな声で私を引き止める。店先にぶらんとぶら下がった大きな赤い魚は確かに珍しい。脂がのってて美味いぞお、と言われれば食べてみたいなと思うのも当然だし、おまけするからさ、とウインクを飛ばされればもう買ってしまおうかとも思うだろう、普通。だけど、カバンの中に突っ込んだ手を戻して、今日はごめんなさい、と手を打った。おじさんはキョトンとして、やがて港の方を眺めて、「タイミングが悪かったか」と悔しそうな顔で笑みを零した。
肉屋のオバチャンはにこにこと笑いながら、安くしとくわよ、とたんまり美味しい肉を詰めてくれた。こうも全員に言われると単純に恥ずかしい。ありがとう、と言いながらベリーを渡す。こんなに良いお肉が買えたのだから、ステーキでも焼こうか。いいやでも、海上生活では食べられないような凝ったものの方が喜ぶかもしれない。誰かに聞けば、名前ちゃんの作ったものならなんでも喜ぶだろうよ、と言われてしまいそうだ。それは、本当にその通りだから。
あれこれと考えながら、キッチンで支度をしていると、ブブーと壊れたようなくぐもった音が鳴る。火を止めて、ドアを開けると、大家さんが細長い紙袋を持っていて、それを私に渡した。
「今日帰ってくるって聞いてね。旨い酒を貰ったんで、旦那と飲んでおくれよ」
チラリと覗けば、何やら高級そうな箱に入ったワインが1本。この島は隣の島と交易が盛んで、隣の島は有数のワインの産地として有名なのだ。あの人も、喜ぶに違いない。旦那というワードは、一先ず置いておくとして。
「ありがとうございます」
じゃあまた、とドアが閉められる。ワインは常温がいいとか冷やした方がいいとか、私には分からないからそのままテーブルの上に。再度、火をつけ直して、シチューの仕上げをした。季節外れだけど、あの人の好物だ。蓋を開けて広がる香りに、揺れる赤い髪が虹彩の奥で蘇る。タイミング良く、ドンドンと鳴ったドアはギイと音を立てて軋んでる。壊れたら直してもらわなくちゃ、彼が次の航海に行く前に。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
彼が言うに、あのワインは冷やした方が旨いということなので、冷蔵庫に入れ直して、ディナーまでもう少し待つことにした。彼が話をしようかと笑うから、頷いてソファへ。海の話は、いつもスリルとロマンに充ちている。冒険とは、時に海を知らない私のこともわくわくさせてくれるものだ。
彼の話を聞いて、胸踊らせ、私はひっそりと泣きたくなる衝動を抑える。いつものことだ。彼の話を聞けば聞くほど、距離を感じてしまう。どんどん遠くに行ってしまうような気がする。気がする、だけのことなのに。いつかどこかへ行って、そのまま彼は帰らない。それを待ち続ける私の未来は、明日かもしれないし、もっとずっと先かもしれない。彼の話を聞けなくなる日が来ることを、私はいつもソファの上で、膝を抱えて、恐れてる。
「名前は、俺がいない間、何してたんだ」
彼と比べて、話すようなことは何もない。正直にそう言えば、なんでもいいんだと彼は言う。「名前のことならなんでも知りたい」と、少年のような曇りない瞳で私に愛を注ぐ。私は、本当につまらない毎日を、本当にちょっぴり大袈裟に話した、いつもそうしているように。シャンクスは笑う。楽しそうで嬉しそうで、私は悲しい。そんなふうに思ってくれているのならずっとそばにいてよとは、口が裂けたって言えそうにない。
ワイングラスをぶつけると、カランと音がした。乾杯、と口にしてシチューとステーキを囲む。口に含んだワインは、たしかに美味しかった。シチューも、ステーキだって焼き加減最高。こんな日に限って失敗、だなんてありがちな笑い話にならなくて良かった。シャンクスの方も、美味い美味いと食べくれる。そして、グラスを傾けて、同時に、困ったように微笑む。あ、少し日焼けしたなんて思うとまた胸が痛い。
「……今日はやけに、口数が少ないな」
「そう?」
「俺がいない間、なにかあったのか」
「ううん、」
違う、違うの。迷って、胸がいっぱいなんだ、と零した私を彼は受け入れた。静かに、優しく笑いながら。
行ってくる、と言ったシャンクスを送り出し、島のみんなに寂しくなるねとからかわれて、漸く寂しくなったことを思い出す。指折り数えて帰還の日を待って、食べたかった魚も辞めてお肉を買いに行く。そんな毎日を、もうずっと繰り返してる。それなのに、いざ目の前に彼がいると、嬉しいやら照れくさいやら、何にも増して、愛しい思いが溢れ出してしまう。胸がいっぱいになって、聞きたかった話も伝えたかった言葉も、全部半分も言えずにまた彼を送る朝が来てしまうことを知っている。
「こんな気持ち、貴方は感じたことないでしょう」
胸が痛くて、苦しい。寂しくて愛しくて、ずっとそばにいたいと思うのに、彼の夢路を邪魔する女にはなりたくない。我儘だ。嫉妬だってする。本当は私も海へ行きたいけれど、臆病だから、それも思うだけ。ごちゃごちゃ考えて、会ったら全部忘れてしまう。ばかみたいだ、こんなに誰かを好きだなんて。
「感じてるさ、今。お前に」
お得意のジョークか、なんだっていい。彼は私を幸せにするのが上手いから。私が彼を思う何分の1でも、シャンクスが私のことを考えてくれれば、ってそればっかり。私が海を見る度に彼の無事を祈るように。赤い髪を見る度に、美味しそうなワインを見つける度に、ドンドンとドアが叩かれる度に、海を映した綺麗な青空が広がる度に、私がシャンクスを好きだと思うように。その何分の1でも、もし出来るなら同じ分だけ、彼が私のことを好きだと思ってくれたらな、ってそればっかりだ。
拝啓、春をしたためて
song「恋をしたから」by あいみょん