並んで座った公園のベンチ。拳一つ分空けて座った。二人の手には缶コーヒーが一つずつ。口をつけたらあんまり美味しくないのは、いつものことだ。

「……見たんだろう」

 車とバイクのエンジン音。ざわつく自分の鼓動を隠すのにちょうどいい。私は肺と答えた。もう逃げも隠れもしない。嘘もつかない。偽りもしない。私たちはもっと正直に素直に生きるべきだった。今からでもまだ、きっと遅くはない。

「尾形さんは知っていたんですか」
「……ああ。物心ついた時から、一人分の人生の記憶があったからな。でかくなるにつれて鮮明になり、今はほとんど全ての記憶がある」

 彼は、尾形百之助という帝国陸軍第七師団に所属していた軍人の記憶を持って生まれた。あの、写真に映っていた尾形さんの瓜二つの男の人だ。顔も名前も同じ、生まれた時代だけが異なる人間の記憶。尾形さんのそれが、確実に彼の前世かどうかなんて誰にも分からない。でもそれに限りなく近い、運命か、あるいは呪いのようなものだと彼は言う。

「あの夜会う前から、アンタのことは知っていた」
「え。そうだったんですか」
「前に宇佐美と同じ会社にいた時からアンタの家族は目をつけられていたからな。だがアンタが今、幸せにやってるなら会うつもりはなかった」

 それからしばらくして尾形さんは会社を辞めた。私たち家族は結果的に巻き込まれ、父は借金を遺して母と他界。借金の形に売られそうになっていることを知り、彼は私を救いに来た。知らせたのは宇佐美さんだろう。興味本位と言って本当は何が目的なのかさっぱり分からない彼の気まぐれか。いずれにせよ、尾形さんは私の借金を払い、その代わりに私を近くに置いた。……嘘をついて。

「でも、どうしてあんな嘘を」
「見ず知らずの男が、前世の妻に似ていると言ったところで信じねえだろう」

 彼の、言うとおりだった。彼と共に時間を過ごし、そしてあの写真と手紙を見たから私は彼の言葉を疑いなく受け入れることができる。でも、あの時だったらどうだろう。闇金の次は新手の詐欺だと怯えて、警察に逃げ込んだに違いない。

「じゃあ、私をあの家に置いたのは何故ですか」
「あの会社のボスは執念深いんでな。いつまた狙われるか分からなかったんだよ」

 それに——。彼は口をつぐむ。尾形さんの中にある悲しみのような感情は、彼のものなのか。それとも辛い時代を生きたあの人のものなのか。彼の中に棲まう孤独の正体に触れた今となっては、どちらにしたって愛おしい。

「約束があった」
「……やくそく?」
「アンタの待つ家に、必ず帰ると。だが俺は、帰れなかった」

 帰りを待つ妻の手紙。彼もそれを読み、それに答えようとした。ただ生きていることですら難しかった時代。軍人であったなら尚更だ。

「だから、あなたが待つ家に帰りたかった」

 いつかの時代に生まれた悲しみが、今は彼のものであるように。私の目から零れた涙も、今は私のものなのだ。かつて彼の妻は、毎日彼の帰りを祈っていたことだろう。帰らないかもしれないと思いながらも、彼のことを想いだろう。時代を超えて再び私と彼が出会ったことで、その思いが報われたとは言えない。

 しかし、結果的に約束を果たされた。そのために、運命と記憶は託されたのだ。

「だが、俺が尾形百之助ではないように、アンタもあの男の妻じゃない」

 私たちは似て非なる存在である。運命の一部を共有したが、百年前と今では生まれ育った環境があまりにも違う。歩んできた道も、感じたことも違かった。

「ただあの男と同じように、アンタを愛した。……それだけだ」

 尾形さんの人差し指が私の涙に触れる。二人の間で生まれた悲しみの一つ一つを消し去るように、彼の指が私の溢れて止まない涙を追った。悲しいとも嬉しいとも違う感情が、今、心の中にある。暖かくて、切ない。それは私が、彼女の記憶の代わりに持って生まれてきた何か。彼女に託されたものだと思いたい。

「……でも、尾形さんには好きな人が」
「だから嘘だって言ってんだろ」
「じゃあ私が銀座で見た人は? 二人で、宝石屋のところにいたじゃないですか」

 私の言葉に、尾形さんは驚いた時の猫みたいに目を丸くする。それから全て理解したように大口を開けて笑う姿は、正真正銘初めて見る姿だった。

「あれは昔の仲間みたいなもんだ」
「昔の、仲間?」
「ああ。ああ見えてあれは男だぜ。疑うなら今度会わせてやる」

 あの、美人が男? すぐにそうですかとはならないけれど、彼の様子を見るに本当なんだろう。こんなところでつまらない嘘をつく人じゃない。つまり、私が見たのは男女のデートではなく、男性同士の買い物だったと。紛らわしいにも程がある。それをたまたま見た私の運の悪さも大概だけど。

「俺はそれでフラれたのか」
「フったというか……身を引いたというか……」
「心配するな。俺はどうやらアンタ以外は愛せないらしい」

 ようやく止まった涙の最後の一粒を、風がさらって運んでゆく。偶然か必然か。運命か宿命か。遠い時代の空の下で出会った命が、再び巡り合う。彼があの人と同じように私を愛した。私が彼を愛することも、もしかしたら生まれた時から決まっていたのかもしれない。でも、今。私が思うことや感じることは私だけのものだから。これからの人生を決めるのも、今の私と彼だ。自分の意志で、彼と一緒に歩いていく道を選びたい。もう、後悔しないように。

「……私も尾形さんのことが好きです」

 尾形さんの無骨な手が、私の髪を撫でた。別れの日も、あの砂浜でも触れることのできなかった場所を、彼の指がなぞる。
 静かに瞼を閉じれば、今度こそ確かに唇が触れ合った。

 北海道に今季初めての雪が降った日。私たちは初めてキスをした。いつまでも忘れられないような甘く、温かな触れ合いだった。百年後、私たちはまた出会うだろう。そして今日のキスを思い出すのだ。

「書かれなかったことを読む手紙」03

「いつかどうしても悲しい時に」〆
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