来て、しまった。

 まんまと彼の言葉に乗せられているようで悔しいけれど、‘行けば分かる’と意味深なことを言われては気になるだろう。こちらに来て友人もいないのだ、休日に特別用事があるはずもない。宇佐美さんの再会した一週間後、私は市民ホールに来た。彼が指差したあの展示を見るために。

 土曜ではあったが会場には人がまばらにいるだけで、入場券を買うとすぐに中に入ることができた。初めて来た場所だったが思ったより広く、展示はいくつかのブースに分けられているようだった。軍服や銃を展示してあるエリア、寮や病院が再現されたエリアや、軍生活に関する道具が展示されているエリアなど。歴史にも帝国陸軍にも興味も持たずに生きてはきたが、来てみればそれなりに興味深く、見入ってしまう。

 最後のエリアは、兵隊さんの私生活をクローズアップしたブースになっていた。明治から大正へ移り変わるちょうど間の時期を生きた当時の国民生活、また家族と離れて生きることも多かった彼らの妻や親とのやりとりの記録。手紙と写真だった。そこだけが、誰の目にも入らないかのように人がいない。

「……嘘、」

 ガラスのショーケースの中にはボロボロになった缶の中に入った手紙の束。一番上に写真が入っていたとある。その写真に映るのは着物を着た女性と軍服を着た男性。陸軍第七師団に所属していた男性兵とその妻である。そこに映っていたのは、私と―尾形さんによく似た二人。画質の荒さもあったが、それは似ていると言うよりもほとんど私たちだった。しかし、そんなことあり得るのだろうか。ここまで瓜二つの人間が、明治時代にいた? しかも、夫婦として。

 手紙の束は訓練に励む夫に、妻が認めたものである。

‘今はいかがお過ごしでしょうか。こちらは遅れながら桜が咲きました。——’

‘お怪我はされていませんか。町で兵隊さんとすれ違うと貴方を思い出して胸が痛みます。無事の一言で構いませんから手紙をいただければ嬉しく思います。——’

‘返事を書くのを恥ずかしがる百之助様。それでも私は貴方の帰りを心よりお待ちしております。どうぞご無事でお過ごしくださいね。——’

 一筆一筆に夫を思う妻の思いが込められている。妻から夫への深い愛情がそこにはあった。手紙には返事を書かなかったとある。しかし、妻から日毎送られてくるたくさんの手紙を、こうして缶に仕舞いその中に一緒に二人の写真を収めていたところを見るに、夫も妻を大切に思っていたのだと分かる。
 
【尾形上等兵とその妻】

 それは、私たちだった。俄には信じられない。もしかしたらただの偶然なのかもしれない。しかし、それを運命と思ったっていいだろう。かつて自分の意のままに生きることも難しかった時代。彼とその妻は結ばれた。出会いは知らない。成り行きも関係も知らない。しかし、百年という長い時間を耐えて残されたこの資料が、尾形上等兵から妻への何よりの返事なのだ。展示の最後には、第七師団二十七連隊の集合写真が飾られていた。そこに、見知った二つの顔。それが、彼ら―尾形さんと宇佐美さん―の秘密だとしたら。宇佐美さんが、勘違いしてると言った言葉の意味を私は確かめなくてはいけない。

 会場の外へ出る。カバンからスマートフォンを取り出す。たった一度だけかけた彼の番号。二回目があるとしたら今日。今日を除いてチャンスはない。そんな気がして、恐る恐るその番号をタップする。続くコール音。いつでも電話に出られるわけじゃない。でもどうしても、彼と話がしたくて‘切’が押せない。

「……なんだ」

 冬の匂いが混じった風が強く吹いた。市民ホール前、人は少なく、目の前の道路は往来が激しい。電話口からではなく、すぐ近くから聞こえた声。聴きたいと強く願った声だ。ゆっくりと振り返る。そこに誰がいるかはもう分かる。でも早る胸を抑えきれず、なんだか夢の中にいるような感覚に陥った。

 初めて見るコート。手にはスマートフォン。尾形さんが、そこにいる。

「どうして、ここへ——」

 尾形さんは静かに一度ホールの方へ振り返ってから、私の目を見た。

「アンタが、ここにいると聞いたんでな」

 もう、それはどういう意味かと迷うのはやめにする。悩んで黙って、時間を無駄にすることももうしない。彼は、私に会いに来た。きっと宇佐美さんに聞いたんだろう。彼に私の場所を探してほしいと頼んだのも尾形さんだ。もしかしたら、彼は私にこのことを言うつもりはなかったのかもしれないが、それも今から聞けば済む話だ。私たちに、俯いて黙り合っている時間はない。ほんの少しの勇気があれば、きっと今は変わっていた。私にも、彼にも足りなかったもの。

「お話しませんか。話したいことが、たくさんあるんです」

「書かれなかったことを読む手紙」02