「でも、なんで急に北海道だったのよ」
「……なに、今更」
「だってあの頃、なんか落ち込んでたし。聞くのは落ち着いてからでもいいかと思って聞かなかったのよ」
久しぶりの電話。友人が変わっていないことに安堵する間もなく、やっと訊けると彼女が切り出す。尾形さんと別れ、仕事も辞めた私は北海道に移り住み、半年以上が経っていた。もうすぐこの北の大地にも短い秋がやってくる。尾形さんと出会った季節だった。
「なんでって……雪の降るところに住んでみたくて。それだけ」
私の意外な返答に友人は呆れたように笑う。大変なだけって言われたら、確かにそうかもしれないが。彼と別れ新しい場所へ行こうと思った時、真っ先に思いついた場所だった。雪の降る場所。辺り一面、真っ白になる世界に行ってみたいと思ったのだ。好奇心とか怖いもの見たさとか、衝動的、本能的に。
「もうすぐ降るんじゃない、雪」
「ね。寒くなってきたよ」
「気をつけてよね。今度遊びに行くから」
それじゃあまた。短い挨拶を交わし、電話を切る。東京から花が送られて来たばかりだ。花瓶代わりにグラスに挿して飾る。彼女の言う通り、もうすぐ雪が降りそうな季節だ。寒さはゆっくりと身に染みて、時折彼を思い出させる。尾形さんと過ごした時間と同じ長さの季節が流れても、まだ彼を思い出すことができた。
「……元気かな」
この場所で冬を越え、春を迎える頃には彼はどのくらい遠くにいるだろう。忘れてしまいたいのか、いつまでも覚えていたいのか。それすら今は曖昧なままだ。
新しい土地と新しい仕事。こっちに来て友人はできていないけれど、顔見知りはできた。住んでいる場所にほど近いところにある喫茶店の店長だ。いつも人の少ない店で、店長にとっては寂しいかもしれないが、私は静かで気に入っていた。店長特製ブレンドは初めて飲んだ時、みょうに落ち着く味がして思わず「美味しい」と呟いた。それに嬉しそうに微笑んでくれた店長が優しく話しかけてくれたところから、行けば会話をするようになった。私が失恋して東京から北海道へ越して来たのだと、この場所で店長だけが知っている。若いうちは色々あるよと言った店長の後ろの棚には、若い男女が映った写真。それが誰であるかはまだ聞いていない。名前も知らない古い音楽に耳を傾け、今日も店長の特製ブレンドを楽しむ休日の午後。穏やかすぎる午後は少しだけ一人であることが寂しくなる。
コンコン 誰かが外からガラス窓を叩いた。私が驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある顔があってまた驚く。
「……宇佐美さん」
ニコニコと口だけ笑った宇佐美さんがそこにいて、私と目が合うと外から手を振る。開いた口が塞がらない。なんでここに? 私の混乱をよそに彼は入り口に周り店の扉を開く。いつか見た姿と全く変わらない姿で、彼は現れ、私の前の椅子を引く。「アメリカンひとつ」。慣れたように注文をして、久しぶりと友人のように話しかけてきた。
「……どうして」
彼が来るということは碌なことではないに違いない。そんな露骨な不安感を彼は鋭く嗅ぎ取って笑い飛ばす。スムーズな動きで煙草を胸ポケットから取り出すも、ここが禁煙であると知ると、すぐにそれは元あった場所へ戻された。
「借金取りに来たんじゃないからそんな顔しないでよ」
「じゃあ、なんで」
「依頼。君を探してた」
宇佐美さんの注文したアメリカンが運ばれてくる。店長は私に「お知り合い?」と尋ねたが、何を言うか迷った私の代わりに宇佐美さんが「東京の友達です」と答える。友達なんて嘘でも思えないような関係だったはずだが、話をややこしくする必要はない。笑って頷けば、すぐに店長は仕事へ戻って行った。
「誰が私のことを」
「それは守秘義務があるから」
宇佐美さんが言わないと言ったことは何度聞いたところで教えてはもらえない。大して彼を知っているわけではないが、きっとそういう人だろうと予想はつく。それに何より私が彼より口がたつとはとても思えない。私は黙り、彼は笑う。奇妙なお茶の時間だ。居心地がいいはずのこの店で、まさかこんな気分になるなんて。
「元気?」
「え?」
「心配してる。依頼人が」
「元気ですけど……」
宇佐美さんに依頼をするような人の中で、私が元気かどうか心配するような人を私は一人しか知らない。尾形さんが私を探すためにわざわざ宇佐美さんに頼んだ? まさかなんでそんなことを。私はただの代替品だった。借金だって返した。もう用はないはずなのに。未だ私の心にあり続ける人が浮かんでくる。―さようなら、はちゃんとしたはずでしょう。あなたは、あの人といるんじゃないんですか―
「知らなかった」
「何をですか」
「あの男にも、罪悪感があるんだなと思って」
宇佐美さんは頬杖をつきながら、不思議なことを言った。意味は教えてもらえない。彼と尾形さんだけが知っていることがある。それに私も関連している。教えてもらう理由はありそうだが、やけに秘密主義な二人を説き伏せる自信はなかった。
「君、勘違いしてるから。たぶん」
「何を勘違いしてるんですか」
「なんでそこまで教えないといけないワケ?」
そこまでって、さっきからほとんど何も教えてくれていないじゃないか。まだ整理しきれていない頭の中に、どんどん彼が言った言葉が積みあがってゆく。何しに来たんですか、なんで来たんですか、誰に言われて来たんですか。答えは「さあ」って。あんまり意地悪な気がする。宇佐美さんは意地悪な笑顔を浮かべ、コーヒーの残りに口をつける。私のカップはもう空っぽだ。
「あれ。行ってみれば」
宇佐美さんが指差す先、喫茶店の壁には市民ホールでやる催し物の張り紙。【北海道と第七師団の歩み】と題打ったそれは、明治時代の陸軍と北海道の繋がり、歴史に関する資料を展示するものだった。どうして急にそれが話に出てくるのか。宇佐美さんの話は脈略があるのかないのかさっぱりだ。
「……行けば分かるかもよ」
「書かれなかったことを読む手紙」01