寒い夜だった。家の戸を誰かが開いた。この家の戸を、私以外で開く人間はただ一人。私は繕っていた着物を投げ出し玄関口へ急ぐ。あの人が、帰ってきたのだ。何度便りを送っても返事のひとつも書いてくれない。帰るときは知らせてくださいと書いたのに、結局何の知らせもなかった。それでも、いざ彼の顔を見るとそんな小さな怒りも嘘のように消えてしまう。伸びた髪と髭。また増えた傷。今度は顔に。ボロボロの軍服が、争いがどれだけ激しいかを語る。彼は外套と銃を背中に背負い、そこにいた。玄関に置いた蝋に急いで火を灯せば、虚な彼の瞳にも光が宿る。

「……百之助さん……」

 あまりにも痛々しい。望んだ再会ではなかったが、彼が帰ってきてくれたことが何より嬉しかった。

「お帰りなさい。……いま、お茶を沸かしますから。早く中へ、寒いでしょう」

 独り、家にいると冬の寒さがより一層沁みてくるようだった。まして、彼はこの寒い夜に遠くここまで歩いてきたのだ。どれほど冷えたことだろう。

「茶は要りません。ここに、」

 急ぎ台所へ戻ろうとする私を、彼が引き止める。私は足を止め、燭台を棚へ置く。薄暗がりに浮かぶ百之助さんの顔は血の気が引いて見え、嫌な予感ばかりが浮いてくる。閉められた戸を風が叩く。私たちの他は誰も訪ねてこないような家なのに、今夜ばかりは騒がしい。がたがたという喧しい風の音に、彼の声がかき消されてしまわないよう、私は一歩彼の元へ近寄った。

「すぐに、行く」
「こんなに冷えた体で、ですか」
「ああ」

 百之助さんが、私の手を取る。雪のように冷たかった。いつも私に触れれば、「女の体は冷たくて嫌だ」と言った人が、今は死んだ人間のように冷たくなっている。私は握られた手を両手で握り返した。少しでも暖かくなってほしかった。暖かくなるまでどこにも行かないでほしかった。いいえ、本当のことを言えば、どこにも行かないでほしかった。その手が離れてゆくことが、いつも何より恐ろしいのだ。

「遠くへ?」
「恐らくな」
「次は、いつ帰られますか」
「——もう、俺を待つのはやめにしろ」

 百之助さんの猫のような目が私を強く強く見つめていた。その目に私が焼き付けられてゆく。見つめ返すことも、同じように彼を刻むことも簡単だ。でもそれが最後だということを受け入れるのは難しい。彼が言葉にせずに伝えようとしていることを、私は首を振って拒む。帰ると言ってほしい。約束が欲しい。普段は言わぬ我儘なのだから、今夜だけは許してほしい。離すまいと強く掴んだ手を、彼も同じ強さで握り返す。少しずつ彼の手の中に温度が帰ってくる。

「嫌です」
「駄目だ」
「ここで、あなたを待ちます」

 子供のように泣いた。彼の手を握り、蹲って、自分の着物に涙がたくさん沁みた。寒い夜に一層の悲しみが降る。嫌だ嫌だと泣きながら首を振る。もう止められない。泣いて泣いて、たくさん泣いた。小さく丸くなった私の体を、百之助さんがそっと抱く。血と汗と火薬の匂い。軍人さんの匂い。百之助さんの匂いだ。

「もうこんな寒いところはうんざりだろう、暖かい場所で暮らすといい」
「嫌です、百之助さんがいないところへは参りません」

 彼の不器用な唇が、私の頬と口に触れる。髭が顔に当たって痛かった。そしてそのことを死ぬまで忘れないだろうと思った。痛みと悲しみと匂いと風の音を、何度も何度も思い出すだろ、と。

「俺を待たずに暮らせ」

 嫌だと泣く声も枯れ果てた頃、彼が静かに立ち上がる。

「達者でな——」

 寒い夜だった。彼が出て行った月も見えない夜。私が彼を追いかけて飛び出すと、裸足に雪の冷たさが突き刺さるようだった。軍靴を履いた彼はもう追いつけないところまで進んでいる。最後に彼の名を呼んでも、その背が振り返ることはなかった。さっきまで手の中にあった彼の体温が、雪のように溶けてゆく。まつ毛の先で悲しみが凍り、愛しい背中が霞んで見えなくなった。

 それが、私たち”夫婦”の最後の夜だった。

「吐息に全部を溶かすから、言葉は信じないでくれ」03

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