彼が教えてくれた洒落たバーとは正反対のような、庶民的で人の多い店。かつて足繁く通っていた町の中華屋。彼の家に越して以来、来るのは初めてだった。久しぶりにあったおじさんとおばさんは変わらず元気そうで、私も元気だと言えば安心したように笑っていた。

 グレーのコート、黒のタートル。すらりと着こなした彼が、似つかわしくない中華屋の戸を開き、騒がしい店内に目を配る。隅の方の席にいた私を見つけ、そのまま真っ直ぐこちらへ来た。尾形さんが席に着くと、彼用のおしぼりと、先に頼んでおいた油淋鶏がタイミング良く運ばれてくる。

「お気に入りなんです、ここの油淋鶏。尾形さんも何かどうぞ」

 サクサクでアツアツの唐揚げ。尾形さんは、回鍋肉を頼んだ。それも美味しくて大好き。尾形さんの探るような視線に気づかないふりをする。一番最初に注文しておいた生ビールはもう半分以上なくなっていて、私は同じものを二つ、尾形さんの分まで頼んだ。目の前に彼が座っていなければ、失恋女のやけ酒だって丸わかり。終わりから時計を反対回しにしているようで嫌になる。

「すみません、突然」
「別に構わねえが。アンタから電話が来るのは初めてだったな」
「あ、そうでしたか?」
「ああ」

 尾形さんが箸を油淋鶏に伸ばした。意外と猫舌な尾形さんが、熱いものを食べる時、ふうふう冷まそうとする顔がなぜか可愛く見えていた。それが好きだってことだった。指摘すると、不機嫌そうになるところも含めて、なぜか好きだと思っていた。好きになるのに理由はない。嫌いになる時は理由があるのに。その理由を探している。見つける前に、別れの時間が来ることも分かっていたけど悪あがき。

「……どうした。なんかあったか」

 笑いながら頷いて、生ビールの残りを飲み干す。
 言ってもいいなら、何かなくても会えるような関係になりたかった。それだけ。

「悲しいことがあったんです。尾形さん、呼んでもいいって言ったでしょう」
「何が悲しいんだ」
「それは、まだ言わないでおきます」

 いつか、どうしても、悲しい時が来たら私を呼んでほしい。悲しみに寄り添える存在でありたかった。わがままで勝手で欲深く生きるのなら、あなたの心の中にある一番大切な場所を、私のものにしたかった。恋はひとを欲深くさせるのに、愛がそれを押し留める。どちらにも満たないような未熟な思いはそっと消えてゆく。

「今日は、お酒。たくさん飲みたい気分なんです」

 ごちゃごちゃになった感情を洗い流すようにお酒を飲めば、飲み過ぎているのは明らかだった。得てして気付くのは気分が悪くなってからで、下を向いたら吐きそうだと思った時には、尾形さんもかなりお酒を飲んでいた。普段の無表情に、うっすらと赤みが差している。

「飲み過ぎだ」
「おがたさんもですよ」

 最後の一杯。互いにそう決めて口をつける。宣言通りたくさん、たくさんお酒を飲んだ。酔ったら言えそうなことも言わず、たくさん、たくさんくだらない話を語って聞かせた。子供の頃の夢の話、上司の他愛もない愚痴、友達の子供があんまり似ていない話。どれをとってもどうでもよくて、明日には忘れていそうなことをたくさん話した。口は疲れたが、乾いた喉はお酒で潤した。私がどれだけ話そうと、最初から最後まで尾形さんはうんうん聞いているだけだった。やめろとも続けろとも言わない。もしかしたらそれが彼なりの、‘悲しいことがあった’女への慰めだったのかもしれないが、それを知る術はない。

「……帰るか」
「うん、……はい」

 帰り道。外を並んで歩くのは新鮮だ。いつかの銀杏並木といつかの海。彼と出会い、彼の家へ来てからの日々が、大げさに終わりを告げて、頭の中を走馬灯のように流れてゆく。一つ一つに蓋をする。サヨナラは必要ない。明確な始まりには、明確な別れが必要だが、私たちの愛はまだ始まってもいないから。

「……一緒に、銀杏見に行った時のこと覚えてますか」

 冬が始まる少し前。銀杏色の空の下、銀杏色の道を踏んだ。そこで彼に初めて聞いたのだ、『死んだ彼女はどんなひとだったのか』と。彼の答えを思い出し、つい先日、銀座で見た女性の姿を重ねる。ああ確かに色白で腕の細い美人さんだったな。

「それがどうした」
「私、……尾形さんに借金返します」

 先日、尾形さんと女の人を見かけた日。ちょうど連絡が来た。亡くなった両親の保険金と遺産の整理が済んだ。それで彼にお金を返せる。私たちのきっかけになった、忌々しい八〇〇万円を返済し、私たちの間の貸し借りはなくなる。

「これで終わりに、してくれませんか」

 最後の夜に星が降る。尾形さんが足を止めた。私も同じようにする。冬から春へと移る間の、涼しい空気。悲しいと思うのも、今日が最後に。

「返す必要はないと言ったが」
「覚えてます。でも私が返したいんです。それで、終わりにしてほしいんです」

 後腐れのないように、綺麗な終わりにしたかった。奇天烈な始まり方だった。小説みたいな出来事がたくさんあった。私は一人の主人公で、物語はここで終わる。他でもない私がそう決める。

「―嫌になったか」

 悲しそうな顔はしないで欲しかったのに。彼が私を惜しんでいるとは思いたくなかった。尾形さんの眉間に寄った皺の意味を考えて、頭を振る。隣にいれば情が移るだろう。私が彼を好きになったのと同じように。でも離れれば心も離れる。互いを忘れて生きるようになる。それも、同じくらい自然なことだ。

「勝手なのは分かってます。でも、そう―あなたの恋人の代わりでいるのが辛くなったんです」

 どうか、そんな顔をしないで。そんな手つきで髪を撫でないで。せっかく決めた心が揺らいでしまう。離れ難くなってしまう。泣きたくなって、また悲しい夜が来てしまう。優しくなんてしてほしくない。

「理由は、聞かないでくださいね」

 互いに知る必要のないことを、知らないまま別れよう。
 尾形さんは、私からそっと手を離し、それをそのままポケットに戻した。

「……分かった」

 そうして、その夜、私たちの奇妙な関係と私の片思いは終わりを迎えた。

「吐息に全部を溶かすから、言葉は信じないでくれ」02