冬の日暮れは早く、喋ったり喋らなかったりを繰り返しながら時間を浪費すれば、いつの間には日は水平線の彼方に沈んでいた。帰るかと言い出したのは尾形さんで、最後に花火がしたいと言ったのは私。彼は「ガキくせえ」と言いながらも一緒にコンビニへ行ってくれた。冬なのにコンビニに花火が置いてあったのは、海では年中花火をしたがる私のようなバカがいるせいか。どっちにしろ、「あった!」とはしゃいだ私を見て、尾形さんが少し笑ってくれたから良しとする。
夜の海では季節を問わず花火をしたくなる。大学時代を、そこそこに楽しんだ人間としての名残なのかもしれない。サークルの友達とドライブに出た帰りは、大概海で花火をした。そんなくだらない話に耳を傾けながら、尾形さんが、立てた蝋燭に火をつける。コンビニで特別に借りたバケツに海の水を張り、買った大きなビニール袋をゴミ箱代わりに。それが飛ばないように重石を乗せれば、準備完了。
夜、冬、海。冷たい風は運よく弱まり、綺麗な月が水面に浮かぶ。蝋燭の火に花火をかざせば、ぱちぱちと音を立てて火花が舞う。ただそれだけのことを美しいと思った人間の感性こそが本当は一番美しいと思う。
寒い寒いと言いながら買った缶ビール。運転手の尾形さんはホットコーヒー。こんな風で案外猫舌な尾形さんは、飲むのに苦労している。やっと飲めたと思ったら、一口飲んで不味そうな顔。世の名のある会社が企業努力を重ねても、なんで缶コーヒーって美味しくならないんだろう。また、どうでもいい話。ボタッと花火の火種がバケツに落ちた。
「手持ち花火は、大学時代以来です。尾形さんは?」
「記憶にねえな」
「……彼女さんとは、やらなかったんですか」
「ああ」
なにも語らない彼のことを、本当は何でも知りたいと言えばきっと嫌われてしまう。勝手で欲深い女だと呆れられてもいいけれど、嫌われるのは怖い。でも彼のまことを知ることよりも、知らないフリで横にいることの方がきっともうじき辛くなる。突然ぼとりと落ちる花火のように、私もいつか力尽きる。その前に彼が、「彼女のフリはもういい」と言えばいいけれど、どうだろう。
「じゃあ、私が初めてですね。尾形さんと花火したの」
「だったら何なんだ」
「嬉しいんです」
彼の口から語られない彼女の姿が、日を追うごとにぼやけていく。腕が細く色白の彼女とは、どんな顔でどんな姿をしていたのか。見たこともないから知っているはずもないけれど、それは尾形百之助という人間を通しても、不思議なことに見つけられない。肝心なことはばかり聞けないでいるから、いつまでも進歩のないまま。私と尾形さんの間にある薄いガラスの壁に触れて、彼に触れた気になる。恋愛は自己犠牲のふりをした自己満足。満ち足らないから終わりがない。
「……すみません、おかしなこと言って」
尾形さんの手元の花火が力尽きる。私の花火の光で闇に浮かび上がった彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
私は彼にとって、死んだ人間の代わり。こんなこと、しないほうがいいに決まっている。でも拒めない。私は目を閉じる。逃避か、受容か―。
すぐ近くに、尾形さんの香水の匂いがした。触れる。そう予感した時、ポトリと火が落ちる音がする。目を閉じていても夜の暗闇を感じるほどに外は真っ暗だ。
「悪い」
触れることなく離れてゆく。彼の小さな声が、私たちをなにの変哲もない夜に引き戻した。隣にいるはずの彼は遠く、強く握り締めすぎた自分の手が痛んだ。触れても怒らないと言ったのに。触れてはいけないと思い出させてほしくなかった。
「謝らないでください」
顔を上げられない。彼の目を見られない。バケツに落ちればすぐに消える花火のように、心の中に芽生えてしまったこの感情も簡単に消えてしまえば楽なのに。日毎、大きくなってゆく思いを持て余す。行き場がない。捨てることもできない。彼の隣にいることを、嬉しくも苦しくも思う。彼がなにを愛しているのか知りたくて、でも知ってしまえば終わりな気もして踏み出せない。
「花火、これやって帰りましょうか」
最後に線香花火をやって、そのか弱い光を慈しむ。花も人も、終わりがあるから美しいというのなら、私のこの恋も、美しいと言ってくれるのだろうか。
「楽しいか、これ」
「楽しいですよ。尾形さんと、一緒ですから」
「……そんなことを言うのは、アンタくらいだ」
咲くべきではないさだめを背負って生まれた花が、蕾をつけた。花びらが陽の光を浴びて咲く前に、終わりにしたい。満ち足らないまま、終わりに。
帰りの車内は、行き以上に静かだった。またラジオだけが一人で喋る。窓の外は街灯の少なく闇一色で、そこに海があるかも定かではない。窓に反射した自分の顔。さっきまで花火ではしゃいでいたのが嘘のような顔をしてる。
窓に映った横顔なら、彼に躊躇いなく触れられるのに。ぐるぐるぐるぐる。同じことばかり考えて、自分がすごくバカみたいだ。
「……この前、宇佐美さんに会いました」
少しずつ終わりを手繰り寄せる。尾形さんの「どこで」と問う声が普段よりも一層低く、いつか春枝さんのところへ彼が現れた時と同じように、尾形さんが宇佐美さんを警戒していると分かる。
「会社に来たんです。大丈夫ですよ、何かされたわけじゃないです」
宇佐美さんはただの好奇心だと言っていた。それをそのまま鵜呑みにすることはできないけれど、なにもされなかったのも本当だから。私と尾形さんの関係を探りに来た。尾形さんと宇佐美さんの関係性を知らない以上、そのことがなにを意味するのか、私は知らない。彼らは、なにも語らない。
「宇佐美さんに経緯を話したんです。そしたら、――」
”死んだ恋人?” ”誰のこと? それ”
誰も知らない、彼の恋人。写真もなく、尾形さんも彼女の思い出を多く語らない。疑いたいわけじゃない。でも、―本当にそんな人間は存在したのだろうか。
「そしたら、なんだ」
「……そしたら、宇佐美さんは知らないみたいでした。尾形さんの彼女さんのこと」
ラジオの向こう今夜最後のナンバーが流れてくる。男女の心のすれ違いを歌った曲だ。いつまでも愛しているけれど、思い通りにいかないこともある、と。いつか離れる日が来た後でもそれは変わらないと歌う。
全てのものに終わりがあるなら、この世に存在しうる”変わらないもの”はきっと人の目には見えないのだろう。たとえばそれは、人の心のように。
「どんなまことをお持ちでも」03