尾形さんに誘われて海に来た。彼が誘いの理由を言わないのは、もはやいつものことで、私もそのことに慣れ、何故だの、どうしてだのと聞くことはなくなっていた。行く道すがら、尾形さんが運転席に座り、私は助手席に乗る。運転中の会話はなく、二人の沈黙を取り持つようにラジオが一人喋り続ける。時折挟まれるラジオ特有のガサガサという不快な音声が、私の心の柔らかい場所をざらざらと撫でた。

 長くも短くもない道中。私は、彼の太い腕や、そこに浮き出る血管をあえて視界に入れないようにする。極めて無意味に近い、精一杯の抵抗だった。

 到着して浜に降りると、そこは無人で、夏は海水浴客で人に溢れる砂浜は見る影もない。冬の厳しい寒さが残る季節、特に北から冷たい風が強く吹く今日のような日に、海に来るもの好きは私と彼だけのようだった。寒さに体をブルブルと震わせながら、歩きにくい砂浜を進む。彼は風で乱れた髪を手で抑えながら、目的地もなく進んでゆく。時々後ろを振り返り、私がそこにいることを確認した。足を止めて待つことも、声をかけることもなかった。

「尾形さーん」

 風で吹き飛ばされそうな私の声を、彼の耳が何とか拾い、ようやく彼が足を止める。どこから始まりどこで終わることもない砂浜では、どれだけ進んだかも曖昧になるものだけれど、少なくとも車を停めた場所からはかなり離れた。「どこへ行くんですか」と聞いた。『なにをしに行くのか』を聞けない代わりに。

「疲れたか」
「疲れてはないんですけど。砂の上って歩きにくくて」

 砂まみれになった靴を見せる。尾形さんが少し迷って、私の方へ手のひらを差し出した。意識しないようにと彼の方へ視線も向けず、隣も歩かず、会話もせずにここまで来た私の気持ちなど、彼は知らない。知らなくていいことだけれど、それは少しだけ残酷でもある。

「手を繋ぎたい、って意味で言ったんじゃないですよ?」

 気を遣わせないように、これ以上互いの心の柔らかい部分に踏み込んでしまわないように。下手くそな笑顔を作る私のそれなどまるで気にせず、尾形さんが私の手をとる。彼の手と結ぶと、自分の手が氷みたいに冷たく感じた。私の言葉や表情などお構いなしに、彼がそのまま歩き始めたので、私も歩き始めるしかなかった。

「……怒るなよ」

 振り返りもせず、彼が言う。私でなければ聞き逃したかもしれない声で。
 結局、尾形さんはどこへ行くのかを言わないまま。私が目を向けないようにした彼の太い腕もそこに浮かび上がる血管も、すぐ目の前にある。車中のラジオの代わりに、荒い海の波音。優しいけれど恐ろしいはずのその海は理由もなく懐かしい。

「怒りませんってば」

 私は、彼に抗う術を持たない。どんな時でも、好きになった方の負けだから。

▽▼▽

「……わ、きゃっ」

 砂に足を取られて転ぶ。履き慣れない靴で歩き慣れない場所を行くのに、私のような軟弱な人間は不向き極まりない。百之助さんが振り返り、「怪我はないか」と問うてくる。ないと言えたらよかったが、足の脛の辺りが痛んで嫌な予感は拭えない。

 恐る恐る服をくれば、砂浜に落ちていた貝殻でぱくりと切れてしまっている。穏やかとは言い難かった空気に、さらに小さなひびが入る。彼が私の傷を認めてすぐに手拭いを取り出したので、私はその手を慌てて押さえた。

「大丈夫ですよ、このくらい」

 痛み自体は何ともない。ただこの雰囲気に晒され続ける方が耐え難い。そういうつもりで言ったのに、百之助さんはそれを無視して海で手拭いを濡らし、私のところへ戻ってきた。丁寧に銃の手入れをするように、私の傷から出た血を拭う。白い布に赤黒い染みが滲んだ。海のしょっぱさが傷に染みる気がする。

「大丈夫だって言ったじゃないですか。このくらい何ともありませんよ」
「小さな傷でも菌が入れば悪化する」
「……ご自分の傷は、いつもほったらかしじゃないですか」
「俺とあなたは違う」

 百之助さんが顔を上げる。私の傷をぬぐうその太い腕にも、襟から覗く胸元にもいくつも傷跡が刻まれている。その一つ一つが、私の胸の深いところを強く掴んで、息が苦しくなる思いがすることを、この人は知らない。自分の傷も、ひとの痛みにも鈍感な人が、今、私の傷をいたわり、流れる血を拭っている。

 痛みは嘘のように引いていき、ただ目の前の人を愛おしく気持ちが代わりに溢れ出す。引いては寄せる波のように気まぐれで、海のように強く恐ろしく、そして優しさを併せ持つ。私に注いでくれる優しさを、少しは自分にも与えてほしいと何度言っても聞いてくれないのが玉に瑕。他人に優しくする以上に自分を愛する方法を知らない人だから、私が彼自身の代わりに、彼を愛そうと決めた。

「私も、あなたが傷つくたびに同じようにしたいんです。本当は」

 彼の傷に触れれば厭そうな顔をされたが、払い除けはされなかった。彼の体から血が流れるたびに、私が拭ってあげられればいいのに。叶わないから余計に悲しい。彼が私の元へ帰るたびに、一つずつ増えてゆく傷を数える。痛くても泣けない彼の代わりに泣くことしかできない自分の弱さが、時々、ひどく嫌になる。

「あなたを、あんなところへ連れてゆくわけにはいかないだろう」
「そうですね。……きっとすぐに死んでしまいますよ」

 日毎、命を懸けて戦う人に私が与えられるものは少ない。

「……それは困る」

 私が、彼に与えられるものはありったけの愛情と帰る場所だけなのだ。
 大丈夫。その気持ちを込めて微笑みながら頷いた。彼がどこかへ帰る時、私はいつもそこにいる。そう約束した。それだけが、彼と交わした約束だった。

「案外丈夫ですから、あんまり心配しないでくださいね」

 私に釣られて、彼が少しだけ笑った。腕に触れていた手を取って、いつもより強く握り返す。私はそっと目を閉じる。波音と彼の吐息を、すぐ近くで感じた。

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「どんなまことをお持ちでも」02