尾形さんを好きだと言い切るには、あまりに不確かな感情だった。
私の感じていることを明文化して誰かに見せたら、それは憐れみや同情だと言われてしまう可能性すらあった。私は彼に多額の借金があり、彼の亡くなった恋人の代わりをしている。恋や愛を語るスタートラインには立っていない。彼と私が同じ屋根の下にいて、多くの時間を過ごすのは、彼が私をその代わりだと認識しているからに他ならない。そうであるなら、私も自分の義務に徹すべきだ。余計な彼の表情や言葉に一喜一憂すべきではない。全て、頭では分かっていることだった。
だから、その日、珍しく少しお酒の回った彼に、近くのバーに呼び出されても行くべきではなかったし、「付き合え」という彼の言葉を断って、「家に帰りましょう」と言うべきだった。夜とお酒は、ひとをダメにするものだから。言わなくていいことは必ず口から出ていくし、すべきでないことを判断する力を失ってしまう。
教えてもらわなければ気づかない半地下のバー。彼のマンションに移り住んでもう半年近くが経つというのに、家から徒歩10分の位置にあるこのバーの存在など認識したこともなかった。そのバーのカウンターの端、常連のように座り、ロックグラスを持つ尾形さんは様になっていて視線のやり場がない。カウンターでよかった、テーブルだったらキョロキョロ、変な女に見えたはず。「よく来るんですか、ここ」
「たまにな」
私の目の前に可愛らしいカクテルグラスが置かれ、乾杯の言葉はなしでグラスとグラスを軽くぶつける。
夜とは得てして愛すべきものなのに、彼の隣にいると、それがひどく物寂しいものだと気付かされる。尾形さんのロックグラスの中の氷が崩れる音に耳を傾け、目の前のカクテルに思いを馳せる。ギムレット。カクテル言葉は、『遠いひとを想う』。それが誰かは、彼の心の、長い夜が終わるまで明かされない。
「私、大切な人を失うのって夜と似てると思うんです」
「……どこが」
「夜に一人でいると、暗くて何も見えないから世界に自分一人だって思いません?」
尾形さんは、私の言葉を笑いながら聞いていた。「どうだかな」。それが彼の返事。
私たちに、例えばその夜を照らす、星のような光があればきっとその夜を越えられる。その夜に寄り添う、花のような手があればきっと自分の足で立っていられる。一人でいられない時は、誰かといればいい。ただ、それだけのことなんだ。
「でも、朝は必ず来るんです。……私にも、尾形さんにも」
語れば語るほど、寂しさと虚しさに潰されそうになった。これは慰めであり、言い訳でもあった。永久の夜に閉じこもった尾形さんのためでもあり、彼のためと言って夜に止まり続ける自分のためでもある。
「いつかどうしても悲しいときには、……今日みたいに私を呼んでください」
今度こそ、彼の手が私の方へ伸びてきた。ゆっくり。でも迷わずに。それが頬に触れる。親指が私の頬を擦った。そして初めて、自分の目から溢れた涙に気づく。今日は泣きたいほど悲しい夜じゃなかったはずなのに。彼に掬われた涙一粒。それが溢れた理由を見つける前に、もう消えてしまった。
「泣くな」
「……すみません」
「違う、怒ってるんじゃない」
彼が、困ったように自分の頭をかいた。綺麗に整えられた髪が崩れる。
バーの雰囲気を彩るジャズの音色は、とうの昔に遠のいている。
「……笑っている方がいい」
泣きも笑いもしない男が言った。この人の楽しい時や悲しい時は、恋人と同時に亡くしてしまったのだろうか。そう思ったらなおさら悲しくなった。
これ以上心配をかけないように、私は笑う。涙はとっくに引っ込んで、変な笑顔になった。不細工だった。鏡を見なくてもわかる。意味もなく泣いた気恥ずかしさもあり、ぎこちない顔だったはず。私は、初めから最後まで恥を晒してばかりいる。
「……アンタも、悲しいときは俺を呼べばいい」
「え?」
「隣にいるくらいは、できる」
夜はまだ始まったばかりだが、朝はすぐそこで待っている。彼の手がもう一度伸びてきて、私の髪を優しく撫でた。すぐに離れてゆくそれを、留めておきたいと願う感情は、憐れみや同情という言葉では表せない。私は自分の心を素直に受け入れ、そしてまた暗い夜の淵に立つ。
「知らないことばのなじんだひびき」04