春の日は遠く、寒さの厳しさは盛りを迎えた今日この頃。先日の会合で、春枝さんから受け取った封筒を開封する。中身は写真だった。若い頃の春枝さんと母が写っている。母と春枝さんは高校、大学、社会人になってからも仲が良かったという。写真の母は楽しそうに笑っていて、その姿は私が毎日見ていたものとは違っている。母ではなく妹である瞬間が、母の中にもあったのだ。そのことに少しだけ安堵する。

「いつの写真だ」

 シャワーを浴び、出てきた尾形さんが私の手元を覗き込んだ。そこに映っている母は、髪型が違かった時の私だと言ってもほとんどの人が信じるだろう。

「若い頃の母です。私とよく似てるでしょ?」

 尾形さんは少し驚いた顔をして、写真の中の女性と私の顔をよく見比べた。最終的には納得して「ああ」と頷いた。よく言われていた、似たもの親子だと。

「あ、そうだ。尾形さんはないんですか? 亡くなった恋人さんの写真」
「ない」
「1枚も?」

 尾形さんは頷いた。付き合っていたのに写真がないなんて。写真嫌いな人というのは一定数いるものだけど、それにしたって一枚も写真がないのは珍しい。
「それは、寂しいですね」

 生きている頃は写真がどれだけの価値を持つか分からなかっただろう。私も同じだった。思い出の持つ価値の大きさを知るには、別れを超えなくてはならない。

 友人からもらった花が、もうすぐ枯れる。何物も永遠に存在するものなどこの世にはない。だから一番美しい瞬間を切り取って閉じ込めておきたい。それが写真というものであっても、心の中であったとしても。

 尾形さんの手がゆっくりと動いていた。私の方へ、それは伸ばされようとしている。何を、掴もうとしているのか。避けもせず、そのいく先を見ていた。しかし、それを知る前に、手はストンと重力に従って、元の場所へ帰った。尾形さんの表情は変わらない。寂しそうでも悲しそうでもなく、ただ恋しそう。
 私は、彼の中にどう映っているのだろう。私を恋人の代わりにしたくせに、指の一本も触れないで。優しいのか、それとも私は別の人間だと確かに認識しているのか。確かめたい。好奇心ではなく、どちらかと言うと嫉妬に近い。人間の最も愚かな原動力、それが嫉妬だ。
 今度は私が、手を伸ばした。元の場所に戻ってしまった彼の左手に触れる。分厚い、男の人の手。尾形さんは何も言わず、それを受け入れた。

「……触っても怒りませんよ」

 触ってくれと言うのは破廉恥な気がしてやめた。目が合う。私と彼。もしくは、死んだ恋人によく似た女と彼女を愛する男。視線は合っても、心は通わない。

「だって私、――」

 恋人の代わり、だから。
 言葉の続きを遮るように、彼の反対の手が私の口を塞いだ。優しく、しかし‘何も言うな’と確かに物語る。

「アンタが考えることじゃない」

 ただ、この人の求めるものになりたいと思った。この人の何かになれないのなら、せめて何かの代わりで構わない。でも、それを告げることは許されない。

 私はそれ以上、進むべきではない道の上にいるだろう。引き返すべきだった。感情ひとつ浮かべず傷つき続ける目の前の男を慈しむより前に。引き返せと、自分を戒めるべきだったのだ。――得てして、正解は選び難い。

「知らないことばのなじんだひびき」03