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「疲れたか」
家に着くと、彼は羽織を脱いで腰を下ろした。家に着くとそこらへんに脱ぐ癖も、口を酸っぱくして言えば治るもので、皺にならないようにと気を遣ってくれるようになった。小さいなことでも、私たちのとっては大きな一歩だ。
帰るなり、私のいれる茶を待つ彼は腕を回し、いつも丸い背中を猫のようにさらに丸めて座っている。実際に集まりに行った私よりも、迎えに来た彼の方が疲れた顔をしているのはおかしな話である。そんな姿を見ていると、少し前まで確かに感じていた疲れが薄れ、代わりに笑いが込み上げてくる。「はい」と言いながらも笑っている私は、彼の目には奇妙に映ったのだろう。背中を丸くしたままの彼が訝しげに眉を顰めている。笑うよりも、不機嫌そうな顔をすることの多い人だ。もう見慣れてしまったし、とうの昔に怖いなんて感情も消えてしまった。
「ああいう場所は慣れません」
「……同感だな」
二人、茶を飲みながらほっと息をつく。ここでは当たり前のように生きられるのに、外にいるとどうにもそうはいかない。歩き方も笑い方も、呼吸の仕方すら忘れそうになる瞬間がある。そんな時には思い出す。私が悲しめば私よりも悲しそうな顔をする人のことを。私が苦しめば、私よりもはるかに苦しそうに眉を顰める人のことを思い出す。そうすれば、彼に「大丈夫です」と言うために、私は平静を取り戻すことができる。
「無理して行く必要はない」
「そういうわけにもいきません。私は私の役目を果たす義務がありますから」
呆れたように息をつく。湯呑みから立ち上る煙が揺れた。室内でも寒さを感じる季節が来た。私は、冬は嫌いじゃない。身を寄せる口実ができるから。
「苦しむ必要はない」
彼は言う。私に。そしておそらく、自分にも。
「そんな大袈裟な。大したことじゃないですよ」
親戚一同の輪に入り、黙って話を聞くだけだ。そんなに大変なことじゃない。良くない話も聞きたくない話もあるけど、聞き流す術くらいは持っている。大丈夫。念を押すようにもう一度言っても、彼はしかめ面のまま。
「――俺のせいで苦しむな」
彼はまるで自分のせいだとでも言うようにそう言ったけれど、私は本当に、苦しくなんかなかった。それにもしも仮に苦しかったとして、それでいいと思っていた。苦しくたって構わないのだ。その感情をたとえ彼に信じてもらえなくても、同感だと思ってもらえなくても、それが私の本心だから。私にとっては親戚の集まりで白い目を向けられることよりも、彼にそんな顔をさせてしまったことの方が辛いのに。分かり合える日は、まだ遠い。
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朝、昨日の晩に淹れたお茶はすっかり冷めきっていた。
お茶を枕元に置いて寝たにも関わらず、カラカラに乾いた喉と部屋。寒さを嫌って暖房をつけるか、乾燥を避けて毛布と羽毛布団で凌ぐか。冬の夜は、いつも究極の選択を迫られる。
もう湯気も立たないマグカップを持ってリビングに出ると、何か、大きなものがソファに横たわっている。紺色の靴下。黒のスラックス。腕で顔を覆うようにして寝ていたのは、尾形さんだった。昨日は帰りも遅かったし、そのままここで寝てしまったのだろう。髪もスーツも外出用のままなのに、壁のハンガーには上着だけがかけられていた。私の話を聞いていないようで意外とちゃんと聞いてくれている。まあ、シワのできたズボンをアイロンをするのは私だろうけど。
土曜日の朝、9時半。起きてもいい時間だ。でも休日ということを考えると、まだ寝ていても問題ない。本当はベッドで寝る方が疲れは取れるけど、私の手で動かすのは無理だ。力不足で申し訳ないが、せめて毛布をかけるから許してほしい。彼を起こさないように毛布を取りに行く。尾形さんが寝ているところを見るのは初めてだった。この人もやっぱり寝るんだ、なんて。当然なのに。
前の家で昼寝用に使っていた小さめの毛布を、そっと彼にかける。よく眠っていると油断して、尾形さんの体に触れてしまった。シャツが捲れて寒そうだったから直そうと思っただけ。誓って下心はない。しかし、お腹の上にあった彼の手が、待ち構えていたように私の手をつかんだ。
「あ」
尾形さんの瞼が、ゆっくり開く。
「……まだいいだろ」
焦点の定まらない視界にぼんやりと私を映した。その声はいつもより柔らかい。「……いいですよ」
私に、微笑みかけた気すらした。掴んだ手から力が抜けて、彼は眠りの世界へと戻ってゆく。代わりでしかない私を、誰かと勘違いしたままで。
「知らないことばのなじんだひびき」02