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振り返れば彼がいた。ゆっくり歩いたり、早足だったりさまざまで、彼の気分次第。気まぐれな歩幅に合わせて歩くのにも慣れてきた。彼は徐に足を止め、私は三歩先を行く。そこで振り返れば彼がいて、静かに空を眺めている。彼に倣って見上げた秋の空は銀杏色の葉に覆われて、その隙間を大きな鳥が飛んでいた。
「どうしました?」
立ち止まった彼に声をかける。疲れるほどは歩いていない。そもそも私より先に彼が疲れるなんてことはありえない。突然立ち止まったのも彼お得意の気まぐれだろうと、何となく見当はつく。彼に合わせて私も三歩、足を戻す。秋、銀杏並木。綺麗だねとそれを眺めて歩く人たち。彼の目に留まったものはなんだろう。同じ空気を吸って、同じ季節のなかにいても、まだわずかに壁がある。
「……晴れだな」
ただそれだけのこと。それだけのことだって、足を止めて顔を上げなければ気付けない。彼の言葉を聞いてもう一度空を見上げる。秋晴れの陽をその身に浴びれば、少し前とはまるで別の日のような気がした。
彼の隣を歩く日に、空が晴れていることに感謝する。雨が降ればぐずぐずと歩きにくくなり、彼は一緒に歩いてくれない。それに何より、私と彼に曇天の中、下を向いて歩くような人生はもう要らないのだ。
「綺麗ですね」
彼の言葉に頷いた。
空も鳥たちも皆美しい。黙ってただ隣に立つことが私たちの常だった。二人並んで歩くようになってから、そう多くない時間を共にして、そう多くない会話を交わした。私たちはまだ互いのことを知らないし、知ろうとする努力もまだ足らない。だから同じものを見て、同じものを感じる時間が必要だ。少しずつでも、互いに寄り添うために。
「退屈だろうに。……よく笑うもんだ」
「あら楽しいですよ」
尾形さんは呆れたみたいに笑う。勝手に退屈だと決めつけられるのは心外だ。そんなこと思ったこともないのに。彼は自分を退屈な人間だと言うけれど、他人にとってみれば他人というのは案外面白いものなのだ。私にとってもそうだった。あの家にいるよりも、彼と外を歩く方が何倍も楽しく感じる。それが伝わっていないのが悲しいけれど、それはこれから伝えていけばいい。
「こういう時間を、今は幸せに思います」
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目を覚ますと、昨日とは打って変わってひどい空模様だった。カーテンを開ける前から既に雨の降る音が聞こえていた。毎朝見ているニュースのお天気お姉さんも、「今日は一日中雨」「傘を必ず持って」と呼びかけている。雨の日は憂鬱。特に、昨日のように綺麗な秋晴れの空を見た後だと尚更。
しかし憂鬱でもなんでも、仕事からは逃げられない。箪笥の前にかけてあったブラウスとスカートをとり、適当にコートを羽織る。もう上着が必要な季節が来た。寒がりの私は、室内でもカーディガンが欠かせない。金曜日からそのままにしたカバンを持って家を出て、人間がぎゅうぎゅうに詰まった電車に乗り込む。せめてもの救いは、あの家に住み始めてから通勤時間が短縮されたこと。仕事が憂鬱なことには変わりがない。
職場の最寄りで降りて、傘を差す。開店準備中の中華食堂。かつて私が住んでいたあの駅にあった中華屋を思い出す。月曜日の夜には、あの店に行くことが多かったから。気分の下がる月曜日を美味しいもので締めくくる。今ではそんな余裕もないまま、冬を迎えてしまった。朝だと言うのに思い出すと急にお腹が減ってくる。今日は帰ったら、何か美味しいものを作ろう。心の中でそう決めた。
仕事終わりのスーパーマーケット。それは魅力的だ。一日の疲れからか空腹からか、目に映るもの全部が美味しそうに見える。あれもこれもと手に取って、頭の中に作りたいものを順番に並べていく。来た時にたくさん買うのは間違いではないけれど、女一人で持てる重さには限界がある。ああ買いすぎたと思うのは全ての商品がレジを通った後の話。カゴにわんさか盛られた食材を見てちょっとだけ後悔する。結局、持ち歩いているマイバッグにも入りきらないと追加で買ったレジ袋。これを両手に抱えて持って帰るのは少々、―否、だいぶ憂鬱だ。
買ってしまったのは自分だから持って帰るのも私の責任。でも、手がちぎれそう。馬鹿なことを思いながら歩き出すと徒歩10分弱の道のりも、すごく長いものに感じられる。少し歩いたところで心が折れそうになり、横を通り過ぎるタクシーに誘惑された午後18時50分。
タイミングよく背後から聞き覚えのある声が聞こえてきて、振り返ればそこには見覚えのある素敵な男性。本当に、本当に素敵に見えた。
「……何してんだ、こんなに買って」
「尾形さん……!」
尾形さんは私の答えを聞く前に、当然のように私の手からレジ袋を掻っ攫う。軽くなった左手。心と足取りも同時にぐんと軽くなる。彼は私の右手にあるエコバッグも持つとでも言うように手を伸ばしてきたけれど、さすがにそれは申し訳ない。両手に持った重さは体感済み。このくらいなら私だって持って帰れる。
「ありがとうございます。すみません、持ってもらっちゃって」
「一人でパーティでもすんのか」
明らかに女一人の食事には余る量だ。一週間使えばちょうどいいかもしれないが、保存もなかなか難しい。まあ冬だから、夏よりは腐る心配は少ないけれど。
「美味しいものが食べたくなっちゃって。気合い入れてたくさん買いました」
「なんだ、それ」
「尾形さん夕飯食べました? 良かったら一緒に食べませんか。今日は鍋です」
寒い冬には週に一回でも二回でも鍋を食べたくなる。何より具材をたくさん使えるし、煮るだけだし、簡単で温まる上に美味しい。お鍋最強。
初めて、尾形さんを夕飯に誘ってみる。言った後でそう気が付いた。嫌だったかもしれないと思ってももう遅い。発した言葉は取り消せない。それに山盛りの食事を消費するには人手が必要だ。
誘われた尾形さんは少し黙った。少し迷うような顔で。駅から歩いて3分のコンビニ前に妙な緊張感が漂う。戦うわけでも喧嘩中でもない。
「……食う」
沈黙の後、雨上がりの湿った風の中に彼の声が混じる。私は彼の言葉に安堵して、素直に「よかった」と呟いた。そう、もう朝の雨は上がったのだ。明日はきっと晴れるだろう。そういう小さいことに感謝して私たちは一歩踏み出す。私たちは互いのことをよく知らない。知らないままでもいいけど、少しくらいは互いを知る努力をしてもいい。勝手に、そう思っている。
「腹減った」
「美味しいもの作りますから」
曇り空の月曜日。私たちは同じ荷物を持って、同じ速度で歩いた。同じ場所に帰るために、同じように秋の名残の葉を踏み締める。少しずつ、決して早くはないけれど何かに向かい、近づいていた。
「一番近くが無理なときは」04