部屋には、誰かが暮らしていた跡がなかった。尾形さんが「住んだことはない」と言ったとおり、本当に父親から譲られ、そのまま手付かずにしておいたのだろう。私が暮らし始めた時、食器や棚にはうっすらと埃がかぶっていた。そこに少しずつ私の荷物が増えた。洗面所には女性用のスキンケア一式が並び、ピンクの歯ブラシが立っている。寝室には化粧道具と洋服、キッチンにはピカピカの調理道具。そこに誰かが住んでいるという痕跡が増えることに対して、尾形さんが何か言うことはなかった。これなんだとも、片付けろとも言わない。彼は私を、つとめて受け入れているように見えた。そう、私が望んでいたとも言う。

 だからその日、花瓶代わりのグラスに挿した花束に、尾形さんが興味を示したのは、私にしてみれば意外なことだった。

「それ、昨日会った友達がくれたんです」

 尾形さんが花弁に触れて、それを撫でる。口調や見た目に反して、随分と優しく触れるんだなと失礼なことを考えた。彼は、小さく「そうか」と言って花に目を落とす。好きなのか聞かれたら、「別に」と言う割に、気を引かれているようだ。

「花っていいですよね。部屋が華やかになる気がします」
「……昔、おんなじことを言っているやつがいた」

 それは、亡くなった恋人さんですか。

 ――気になるなら、そう聞けばよかった。尾形さんは、そんなことで怒りはしなかっただろう。答えてくれなかったとしても、聞く前に黙ったら答えは一生明かされない。私は、彼の目に映るのが、花でも私でもなかったことに気がついて、聞く勇気を失った。彼の感情がどこにあるのか知れない。知ろうとする理由は見ないふり。そんな臆病な私の元へ冬の気配が舞い込んでくる。部屋には沈黙が訪れる。窓を叩く冷たい風が、やけに大きく響いていた。

◆◇◆

 銀杏が葉を鮮やかにして、秋の終わりを物語る。もうすぐそこまで冬が来た。
 コートのポケットに手を入れて歩くのはやめなさいと怒られたのは大昔。秋と冬の境目は、冬の真ん中よりも淋しい季節で、今はいない人をたくさん思い出してしまう。ポケットの代わりと言って手を差し出してくれた母はいない。隣には、ポケットに手をしまった尾形さんがいる。

 彼から外出に誘われたのは初めてのことだった。またどこに行くとも言わずに、彼が先に歩いて、後ろを私が着いて行く。電車にもバスにも乗らず、彼は迷いのない足取りで先を行く。辿り着いたのは綺麗な銀杏並木の大通り。秋から冬へと変わる狭間に、黄色の落ち葉を踏み締めて歩く。綺麗ですね、という私の声も落ち葉の中に埋もれてしまった。

 彼が私をここに連れてきた理由を考える。綺麗なものが好きなタイプにはとても見えなかったけれど、この前は花に触っていたし、もしかしたら自然を愛しているタイプ? いや、まさか。それより、もっとしっくりくる理由。亡くなった恋人と来たことのある場所。思いついた瞬間に納得して、きっとそうだと頷いた。現に、そこは今の季節にぴったりのデートスポットで、たくさんのカップルが仲睦まじく寄り添い歩いている。

「……休憩するか」
「はい。あ、私コーヒーでも買ってきます」

 コーヒーを買って、ベンチに並んで座る。顔を上げれば立派な銀杏の木が並び、澄んだ空を秋色で埋め尽くしている。尾形さんにはブラックコーヒーを、私にはカフェオレを。冷えた空気の中で飲む温かいコーヒーはとびきりおいしい。

 コーヒーを飲んで冷えてきた指先を温める。指の先を温めると体全体が温まるという話は本当だった。体の中までポカポカと温まり、ついうっかりまた口から言葉が溶け出した。待ってましたと言わんばかり。やっと聞けた。

「どんな人だったんですか。亡くなった彼女さん」
「……なんだ、急に」

 私が両親を思い出すように、尾形さんも失ったひとを思い出したんじゃないか。違いますか?と冗談みたく聞いても、尾形さんは顔色ひとつ変えやしない。寂しそうでも、悲しそうでもない。急になんだ、って言いたいのはこっちなのに。

「いいじゃないですか、たまには教えてくださいよ」

 私は、その人の代わりなのだから。私と瓜二つだというその人のことを知りたいと思ったっておかしくない。

「腕が細くて、色が白い」
「なんですか、それ」
「……いつも、困ったように笑う女で。嫌とは言えずに貧乏くじばかり引いた」
「優しい方だったんですね、きっと」
「……妙に頑なで、俺が待つなと言っても待っているような、そんな女だった」

 彼のこの秋空みたいな声が、なにもなかった場所に少しずつ彼女の形をつくってゆく。コーヒーの湯気が揺れながら上っていって、やがて静かに消えてゆく。彼の言葉には彼女への優しさが滲んでいる。胸の鼓動が少しだけ早くなる。私へ向けられた優しさじゃない。それなのに、ドキドキしたのだ。

 秋、銀杏並木の下、ベンチに男女。誰がどう見てもデート中。借金を抱えた女と、それを肩代わりした男だなんて誰も思いやしない。

 誰かについてどんな人かと聞かれたとき、いちばん最初に思いつくのは、その人の好きなところ。二つ目に嫌いなところ。本当は今日、尾形さんの隣を歩いていたはずのその人は優しくて、でも頑固なひとらしい。あと、腕が細くて色白。想像したらお似合いだった。勝手にすごく美人を想像してる。私と似ても似つかない。

「私、ちゃんと尾形さんに借金返しますから。……それまで、代わりでいます」
「別に返さなくていい」
「ダメです。返しますよ。それで言います。これで終わりって」

 だからそれまでに、彼にちゃんとサヨナラをしてほしい。言わなかったけど、そう祈っている。尾形さんが今はいない人とサヨナラをして、次の道を歩いていけるように。代わりなんて求めなくても、自分の足で歩けるように。

「……頑固だな」
「よく言われます」

「一番近くが無理だったときは」03