その夜から、2週間。尾形さんは部屋に顔を見せなかった。
 もう来ないのだろうか。薄らとそんな予感めいた考えが頭をよぎった晩、お風呂上がりに水を飲んでいると、ロックの解除音が聞こえた。廊下から玄関の方を覗く。靴を脱ぎ終えた尾形さんと目が合った。あ、何か言わないと。それは咄嗟のことで、何も考えず、何も浮かばず。思いつきだった。

「……こんばんは」

 尾形さんは眉間に皺を寄せる。この人の機嫌がいい時というのを見た試しがない。

「ここは俺の家だろ」

 それもそうなんだけど。ここで寝食をしているのは私だ。感覚的には、もはや私の家だ。尾形さんが家主であることには間違いないが、じゃあなんて言えば満足してくれるのか。考えて出てきたのは「おかえりなさい」だった。なのに、今度は言ったら言ったで目を丸くして黙り。そこまで驚くような言葉でもないだろう。恥ずかしいとか、そういうのはまた別の問題として。

「尾形さん、私一つ聞きたいことがあって」
「なんだ」
「ここ本当に尾形さんの家なんですか? 前に住んでたとか?」

 初めて入った時からまるで生活感のない飾りのような部屋に違和感があった。いまでは見る影もないけれど、それだって私のものが増えたからに過ぎない。尾形さんの‘自分の部屋’と言う言葉も、彼自身がここで寝泊まりしないことを考えると不思議な気がした。

「いや。住んだことはない」

 尾形さんがネクタイの結び目に指を入れる。解けたネクタイを、脱いだジャケットの上に重ね、また椅子の背の上に乗せた。ハンガーにかけないとシワになるのに。

「こんないい部屋を、持っているだけ?」
「父親からもらった」

 初めて。彼の口から死んだ恋人以外の第三者の存在が出た。たった一つ、彼のことを知る。私にとっては喜ばしいことだった。尾形さんのお金の出どころについて、謎はあったけれど、こんな大きな一室を息子に与えるような父親がいるのだとしたら、それも少しは納得できる。

「いいお父さんですね」
「……だったら良かったんだがな」

 そう思ったのも束の間。父親の話をする彼の顔は、お金持ちを自慢する得意げなものでも、幸福そうなものでもない。むしろそれとは真逆の顔をしていた。

「嫌い、なんですか」
「ああ」

 どうして。そう聞く私の言葉を遮り、彼がポツリとこぼした。「殺したいほど」。
 私はその瞬間にごくりと生唾を飲み込み、呼吸をストップさせた。そんな物騒なこと、考えたこともなかった。予想の範疇の斜め上をいく返答に私は言葉を失った。

「冗談だ」

 しかし、彼はそんな私の様子を容易く見抜く。彼のその言葉は嘘だ。でも、それを真正面から「嘘だ」と切り捨てる度胸を、私は持たない。

「……やめてくださいよ、そんな冗談」

 冗談だったら良かったのに。金持ち自慢が恥ずかしいからと言ってくれたら良かったのに。こんな時だけ分かりやすく嘘をついた尾形さんを、理不尽に恨めしく思った。彼のことを一つ知り、一つ見失う。追いかけっこみたいだ。追いつきそうで追いつかない。もどかしい。でもなぜか追いかけるのを止められない。

◆◇◆

 ――風が冷たくなってきた季節。北海道には、今年初めて雪が降ったとニュースが流れた。平均よりも一週間も早い初雪だった。ニュース画面の中の景色は、同じ国のことなのにまるですごく遠い場所みたい。それなのに、少し懐かしい。
『私、雪の降るところに住んでみたいんです』
 ニュースを見て、ポツリとそう呟いた時、尾形さん、なんて言ってたっけ。ちょっとだけ驚いていた気がする。尾形さんは猫みたい。雪がこんこん降っていたら、こたつで丸くなるタイプ。偏見だけど。

「そう言えばさ、引っ越した?」

 休日のカフェ、堂々と花束を持ち込んだ友人が席に着くなりそう言った。自分の意志で引っ越したわけではないが、『住んでいる場所が変わった』という意味では『引っ越した』ことになる。
 フラワーアレンジメントを仕事とする彼女が、余った花を綺麗に束ねて時々送ってくれていたことを、住所の話が出るまですっかり忘れていた。

「これ。送ろうと思ったら受取人不在だって」
「……あーごめん。今、違うとこに住んでて」
「へえ、どこに住んでるの?」

 私は、未だ覚えられない住所をなんとか頭の片隅から引っ張り出して町名を告げる。そうしたら運ばれてきたフラットホワイトに口をつけた友人が、疑うような目を向けた。私が今住んでいるのは、高級住宅街として有名なエリアだ。給料が少ないと嘆くOLが給料も上がっていないのに引っ越し先に選ぶには不適切だった。

「なんでまた急にそんなとこ」
「なんでって。その、……知り合いの家なんだけどね。しばらく留守にするから貸してくれてて。掃除とか空気の入れ替えとかさ兼ねて」

 咄嗟に出た嘘にしては上出来の誤魔化し。友人はすっかり信じてくれた様子で、「羨ましい」とボヤいている。確かにあんな高級マンションにタダで住めるとなったら、羨ましいだろう。私だって逆の立場で同じことを言われたら、同じことを言う気がする。両親の死、借金、謎だらけの男。それらがなければ、きっと。

「あのさ、その人なんだけどね」
「部屋貸してくれてる人?」
「うん。恋人を亡くしてるらしいんだよね」

 第三者の意見を聞いてみたくて興味本位で彼の話をする。
 私も両親を去年亡くした。大切な人を失くす気持ちは理解できるが、親と恋人は話がまた少し変わってくる。家族としての愛情と、恋人を思う愛情は似て非なるもの。尾形さんは今、どれだけ深い悲しみの底にいるのだろう。

「大丈夫なの? その人」
「大丈夫って?」
「恋人死んじゃって、家を人に貸すくらい不在にする気なんでしょ?」

 尾形さんがどこで眠り、どこでなにを食べて暮らしているのか。私は知らない。それを知る日が来るとも、今のところは思えない。私の知らない場所で、彼は恋人を思って泣くのか。そして時々私の顔を見て、また恋人を思い出すのだろうか。

「――もう、帰ってこなかったりして」

「一番近くが無理だったときは」02