私が彼の提案を受け入れると言っても、尾形さんはどんな表情にも見せなかった。彼の目に前に座る私は、月曜日のファーストフード店にはそぐわない絶望的な顔をしていただろうに。

「アンタ。家は」
「すぐ近くです」

 尾形さんが袖を捲る。高そうな時計が顔を出した。時間はもう0時を回っていた。しかし今この状況で明日の仕事のことなど心配していられない。最悪明日の仕事は休むことになるだろう。今が繁忙期ではないのが唯一の救いだった。

「泊まる荷物をまとめて来い。ここで待ってる」
「泊まり、ですか」

 早く行けと彼の目が急かす。どこにも行きたくない気分だったけれど、この状況で、そんなこと言えるはずもない。空になったカップを片手に立ち上がった私に、尾形さんは何食わぬ顔で「あと印鑑」と付け加える。ますます絶望的な気持ちが押し寄せてきた。逃げられない。宇佐美さんに一生追いかけられるか、尾形さんに全て握られるか。ついさっき自分の勘を信じると誓ったのもまるで遠い出来事のようで、二人の間に大差はない気さえしてくる。深夜0時。泣きたくても泣けない夜に見上げた空は、今にも雨が降りそうな真っ黒な雲だけが広がっている。

◆◇◆

 一泊分の荷物というにはやや少ない荷物をカバンに詰め、約束の店に戻れば彼は既に店の前でタクシーを停めて私を待っていた。「お待たせしました」の言葉もそこそこに、彼は私をタクシーに載せると勢いよく扉を閉めた。そして反対側から私の隣に乗り込むと、運転手に住所を伝える。タクシーは未練がましい私の気持ちなどお構いなしに夜の道へ滑り出した。

「あの。……どこへ行くんですか」
「着けば分かる」

 それ以外のことを言うつもりがないことは分かった。不親切だが致し方ない。彼に親切心を求める勇気はなかった。私は自分のカバンを前で抱えて、窓の外に目をやる。大好きだった夜は、私のことなど見捨てたのだろう。それは少しずつ少しずつ夜から朝へカタチを変えて、私を一人、タクシーの中に置き去りにした。
 別れは終わりは突然やってくる。いつも、サヨナラは言えない。

 タクシーが目的地の前で停まる。先に降ろされた私は、彼が告げた「着けば分かる」という言葉に反し、そこがどこか分からなかった。大きなマンション。目の前にあるのはそれだけだ。支払いを終え、降りてきた尾形さんは迷いのない足取りで私の荷物を取ると目の前のマンションへ入ってゆく。説明はしない主義なのか。それとも単に省かれているだけか。

「荷物。自分で持ちます。持てますから」
「……いや。アンタ、これだけでいいのか」

 彼がひょいひょい私の荷物を上下に揺らし、その重さに驚いている。部屋着、下着、化粧道具、着替え一組、スキンケア一式。こんなものじゃないだろうか。まさか旅行に行くわけでもないし。女性は荷物が多いと言うが人それぞれだ。そんな呑気なことを話している間にも、エレベーターはぐんぐんと上がってゆく。それに反比例するように私の気持ちは下がってゆく。

「尾形さんの家、ですか」

 あからさまなセリフだった。大学の時、初めて出来た恋人に飲んだ帰りに家に誘ってきた時だって言わなかった。「家ですか」と確認するのは、「セックスするんですか」と聞くのとほとんど同じ意味だ。少なくとも私はそう思う。

 私は今、自分の借金を肩代わりした男の部屋へと向かっている。現時点でエレベーターという名の狭い個室に二人きり。私と尾形さんが出会ったのは今日が初めてだが、彼の亡くなった恋人と私はそっくりなのだと言う。中身が別人でも、同じ形を求めたって全く理解できないとは言えない。心は体よりも素直だから。

「……まあ、そうなる」

 そこへ行けば誰も助けてはくれない。そもそも今の私は何を求められても、ノーとは言えない立場だ。彼が私の荷物を持ってくれたのは善意ではなく人質なのか。目まぐるしく過ぎた一日の終わりに立てば、無闇に全部を疑うようになっても無理はない。エレベーターが音もなく目的階に到着し、静かにその扉を開く。がらんとした廊下には人の姿はなく、何を照らしているのか分からないライトがぼんやりと浮かんでいた。私は、尾形さんの後に続いてエレベーターを降り、1022と書かれた部屋へ。同じ東京都内なのに、随分遠くへ来てしまった気がする。私の穏やかな日常は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。

「入れ」

 今まで足を踏み入れたこともないような良い部屋だった。白い壁、埃ひとつない廊下、黒のドアの向こうにリビングがあって、寝室らしき部屋への扉も見える。リビングにはダイニングテーブルとソファが置いてあり、テレビの代わりに本棚がある。ポストに入っているチラシのモデルルームみたいな部屋だ。狭くてごちゃごちゃした私の部屋とは大違い。

 その素晴らしい部屋を見て感動するのも束の間、また思い出したように不安が舞い戻ってくる。彼は、――尾形さんは、一体何者なんだ。

「アンタにはしばらくここにいてもらう」
「えっ?」

 彼はさも当然と言った素振りで、持ってくれていた私の荷物を寝室の方へ置いた。ここにいてもらう? 住めってこと? また説明もないまま話が進んでいる。尾形さんは、胸ポケットからスペアの鍵を一つ出して、テーブルの上に。彼の猫みたいな特徴的な瞳が、こちらを向く。お前のだ。そう言っている。

「さっき渡した紙」
「あ、はい。……これ、」
「何かあったら必ず連絡しろ」

 それだけ言うと、尾形さんは背を向けて部屋を出て行ってしまう。自分の部屋だと言ったのに、私一人が残された。ガタン。扉の閉まる音。すぐにオートロックの施錠音がする。「夢ならいいのに。全部」。呟いたって、手遅れだ。

「月はめぐる、星もめぐる、君だってきっと」04
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