立ち話で済ませる内容ではないとその場を連れ立って離れたのはよかったが、どこかで腰を落ち着けて話そうにもすっかり夜は深まり、ファーストフード店以外に選択肢はなかった。駅前でビカビカ光るネオンサインは、その下だけがまるで昼間みたいに明るい。その光に群がる虫のような夜の住人たちが、甘い木の蜜ではなく、ジャンキーなアメリカの味を求めて店に引き寄せられている。私たちもSサイズの飲み物を注文し、2階に上がった。当然月曜の夜だ。客は少ない。

 つい数十分前まで、父が遺した多額の借金を代わりに返せと脅されていたのに今はそれが嘘のように落ち着いている。目の前に座る尾形さんは、お世辞にも優しそうな人には見えなかったが、それでも宇佐美さんと対峙した時のような緊張感や恐怖はなかった。私が買ったアイスティーに口をつけたのを見て、尾形さんは口を開く。

「死んだ恋人の、代わりをしてほしい」

 それが、彼の頼みだった。
 私の800万円の借金を返すと言った彼が、代わりに提示した条件。尾形さんの言葉はあまりに簡潔で、理解できないと言う猶予すらも与えない。『死んだ恋人の、代わり』。聞き馴染みのない言葉だったが、そのままの意味だ。

「それが、貴方が800万円の借金を代わりに返す条件ですか」
「……ああ」
「そんな話、いくらなんでも信じられません。そんなことで大金を、――」

 そうだ。それは単純だが、単純過ぎておかしな話だった。恋人が亡くなり悲しいのは分かるが、その代わりが見ず知らずの女に務まるはずがない。そしてその務まるはずのない任務の代わりに彼が失うのは大金だ。私が返すとしたら長い長い時間がかかるだろう。条件がまるで見合っていない。尾形さんに言われた、「そんなんだから」という言葉を思い出し、きっと揶揄われているのだと思った。何の気まぐれで彼があの車から私を救い出したかなんて知らないけれど、今、ここで彼が言ったことはきっと悪ふざけみたいなもの。だって、そう考えないとおかしいじゃないか。

「似てるから」
「え?」
「……アンタと、彼女がよく似てるんだ。だから、代わりをできるのはアンタしかいない」
「似ていると言っても他人です。大切な人の代わりを知らない女に頼むなんて……」
「俺の心配をしてる余裕が、アンタにあるのか」

 尾形さんの猫のような目が、しっかりと私を捉えた。彼の言うことに間違いはない。あと1週間すればあの恐ろしい人たちが、借金を取り立てに来る。1週間でお金を用意するのは無理な話で、用意できなければどうなるか。宇佐美さんは尾形さんのような冗談は言ってくれないだろう。ドラマや映画でよくあるような恐ろしい光景が脳裏によぎり、私はそれ以上返す言葉を失った。

「俺の金の心配は無用だ」
「――だとしても、」
「俺の話を断って、自分でどうにかできると思ってんのか」

 答えは、ノー。そうできるなら、あの時惨めに震えていたりするものか。

 尾形さんの目が、真剣な顔が。これは冗談じゃないと言っている。突然現れた非現実的な晩の記憶を、確かに現実なのだと突きつけて。ここまで来たら、何が『現実的』で、何が『非現実的』なのか分からない。事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、結局のところ意思の通じない動物よりも言葉を交わせる人間の方が恐ろしいように、何もかもを創造しうる空想の世界より一寸先も分からない現実の方が、ずっとずっと恐ろしいのだ。

「分かりました」

 分からない。非現実的な現実の中に突然放り込まれたら。流れに任せ、直感を頼るしかない。この人は恐ろしい人じゃないと思った私の直感を。

「……よろしくお願いします」

「星はめぐる、月もめぐる、君もきっと」03