車に乗り込む。運転席に座っていたのは、恐らく先ほど宇佐美さんと入店してきた男性だったが、私たちが後部座席に乗り込んでも振り返りもしなかった。私が座るのを見ると、宇佐美さんは車内の明かりをつけ白い紙を一枚取り出した。借用書、と書かれている。ドラマや映画でしか見たことはない。そこにも甲やら乙やらと書かれ、最後に父の名前と印が残されている。貸したのは帝国金融。宇佐美さんの会社だ。借りた金額は。

「――800万円?」
「うん」

 父は、この人たちから800万円もの大金を借りた、と。その紙には残されていた。脳みそが追いつかない。そんな話は聞いたこともなかったし、そんな大金を必要とするような何かにも心当たりはない。呆然としてその紙に目を落とす私の横で、宇佐美さんはそんな状況など慣れっこだと言わんばかりに煙草に火をつけた。窓を少し開ければ、煙草の煙と入れ違いで冷たい冬の風が入り込んでくる。それが頬を冷やしてもとてもじゃないが冷静にはなれなかった。

「返す前に亡くなった。妻も同じく死んだとなったら、返すのは一人しかいない」
「このお金を、私が?」
「そう。来週までにね」

 彼がトンと指差した先には期限として来週の日付が書かれている。彼の纏うスーツよりも濃く暗い絶望が、私の目の前で膨らんでゆく。当然、来週までに800万円なんて用意できるはずがない。警察や弁護士に相談する? しかし、この人たちがカタギの金貸しではないことは明白で、そこからお金を借りたのが父であることも事実だ。

「ちなみに。警察に相談するのはおすすめしないよ」
「へ、」
「死にたくはないでしょ?」

 何が本当のことで、何が嘘なのか。
 今は判断できない。材料が足らないし、何より私が冷静じゃない。焦りも恐怖も不安もある。むしろそれ以外の感情が湧いてこない。

「返せる当てがないなら、――」

 宇佐美さんが何か良からぬことを言いかけた時。私が座っている側の扉が開く。無論、私が開けたのではなかった。扉が開き、車の外を取り巻く喧騒が、冷気と共になだれ込む。振り返って見ると、開けたのはグレーのコートを着た男の人で、装いからして宇佐美さんの仲間ではなさそうだった。でも。それなら何故、扉を。

「降りろ」

 男性が覗き込むようにして腰をかがめ、私の目を見て言った。すぐに理解できずに固まっていると、ドアを開けた男性は私の手をとって車から私を引っ張り出した。その間も、宇佐美さんは何も言わない。ただニヤニヤするだけで、くわえた煙草を取って灰色の息を吐き出していた。

「早かったじゃん」
「殺すぞ」
「いいねェ、僕も殺したいよ」

 私を外へ出した男性は、ポケットから紙を1枚取り出してそれを車の座席に投げつける。

「連絡する」

 宇佐美さんがヒラヒラと手を振る。勢いよく扉を閉めた黒塗りの車は、そのまま東京の夜に消えていった。

◆◇◆

 道端に取り残されたのは、未だ理解が追いつかない私と、男性。掴まれたままの腕から彼の体温が伝わってきて、それを冷ますように冷たい風が二人の間に吹く。少しずつ、少しずつ。私が元々持っていたはずの夜が帰ってくる。あの黒塗りの車と一緒に、東京の片隅に消えてしまったと思ったが、どうやら隠れていただけらしい。

「……大丈夫か」
「どちらかと言うと、大丈夫ではないですけど」
「何かされたか」

 首を振る。何かをされたのではなく、されそうだっただけだ。『返せる当てがないなら』。その後に続くであろう宇佐美さんの言葉の先を考えるだけで、また大好きな夜が遠のいていく気さえする。あんな大金、そう簡単に返せると言える人の方が少ないはずだ。それこそが彼らの狙いであり、彼らの商売なのだろうけど。今、私があの車から降りることができたということは、私が父の借金から逃れられたことを意味するのではない。ただ、一時的に解放されただけだ。あの借用書と、宇佐美さんが私の個人情報を把握していたということ。借りた金額と約束した期限は変わらない。何がどうしてこうなっているのか分からなくても、どうにかしないといけないのだ。『死にたくはないだろう』と私を脅す彼の冷たい声色が、鼓膜に張り付いて今夜は眠れそうにない。

「あの。……」

 おずおずと隣の男性へ声をかけると、弾かれたみたいに手が離れる。腕を離してほしいという意味で話しかけたのではなかったが、ずっと掴まれているのもおかしな話だ。

「ありがとうございました」

 恐怖が少しだけ薄れ、冷静さを欠けらばかり取り戻した時、ようやく彼に御礼を言うべきだと気がついた。あのままあの車に乗っていたら、私はどんな約束をしていたか分からない。

「俺があいつらの仲間だとは思わないのか」
「お知り合いには見えましたが。……仲間だとしても、あそこから出していただいたことに感謝してるんです」

 頭を下げる。男性は大きく息を吐いた。それは冬の空に白く残って、すぐに消える。ため息を吐かれても愛想笑いができるくらいには、落ち着いてきていた。

「そんなんだから狙われるんだ」

 その人の言う通りかもしれない。行き過ぎた善性はいずれ我が身を滅ぼしかねない。父も、お人好しにつけ込まれて騙されたのかもしれない。私の知る限り、何の理由もなくお金を借りて浪費するような人ではなかった。

「金を返すあては」
「どうすべきか、今考えているところです」

 男性は、さっき宇佐美さんに渡したものと同じ紙をポケットから取り出し、私に差し出した。名前と、連絡先の記された紙だった。彼は、尾形さんと言うらしい。

「俺が、あんたの借金を返す」
「……はい?」
「その代わり、頼みがある」

「星はめぐる、月もめぐる、君もきっと」02