渋谷に新しくできたティールームに行きたいと誘ったのは私。彼はたまの非番をそんな人混みの、たったポット一つ分の時間に費やすことに嫌な顔一つ見せず、「いいね」と言った。誘ったのは私だが、ズキリと胸が痛む。彼は少々優しすぎるきらいがある。女の子はわがままなくらいが可愛いのだと、そんなこと私が男だって言える自信ない。

 『疲れているなら無理しなくても』。出涸らしの茶葉みたいに使い古した言葉を伝えても、彼は「行こう」と笑ってくれる。私には気の一つも使わせない。私は彼の優しさを無理に断りたい訳でもなく、いつも甘んじてしまうのだ。

 いざやってきた渋谷のティールームは、予想通り混雑していた。可愛らしい女性二人組から、仲の良さそうな老夫婦まで。店内には素敵な笑顔と紅茶の匂いが満ちている。

 15分待って席に案内された。諸伏と私はそれぞれ好きな紅茶を一つと、二つずつスコーンを注文した。ここは紅茶だけでなくスコーンもサクサクで美味しいと評判なのだ。私たちの前のテーブルには、高校生くらいのカップルが案内された。ジメジメと徐々に気温も高くなってきた今日この頃。肘までまくられた男子の白シャツと、転んだらパンツが見せそうなスカートが危なっかしく揺れている。

「美味しい?」
「うん、すごく。この茶葉買って帰ろうかな」

 諸伏が、私の言葉に満足そうに笑った。彼も確かに美味しいねと言った。品のいい香りが、自分を少しだけいい人間のように思わせてくれる。これも現代に生きる魔法の一つだ。

「諸伏もおひとついかが?」

 ふざけて、店員のような声で言った私に、彼はうーんと悩むふり。こんな小さなことにも付き合ってくれる。彼は本当に本当に優しいし、洒落てるし、目立った欠点など一つも見当たらない。

「うち来ていれてくれるなら買ってもいいけど」

 おまけにこんなスマートな誘い文句だって言えるのだ。これでモテない方が不思議な話。なんで恋人できないのってお馴染みの質問は、いつも「縁がないんだ」と返された。そうは言っても、今日だって待ち合わせ前に逆ナンパされていたのを私は知っているぞ。

 ティーポットも半分以上なくなったとき。とっくにスコーンを食べ終えた諸伏が、テーブルに肘をついて、私を見た。その物憂げな表情を、隣の隣の女子二人組が「かっこいいね」と囁き合う。私もそう思うよ。

「あのカップルが気になる?」
「え?」
「ずっと見てるから」

 恥ずかしくなって、私ははっと顔を伏せた。ほとんど無意識だが、前のテーブルの高校生カップルを気にしていたのは本当だった。若くて可愛くて、お互いがお互いしか見えていない。どこに行っても二人だけの世界を作って閉じこもれる。それは決して悪い意味でなく、羨ましいという意味で。

「……なんか、いいなあと思って」

 私にも、諸伏にもきっとあんな風に無邪気に笑っていられる時間があったはずなのに。いつの間にか大人になって、ひっそりと隠れるみたいに生きている。毎日クタクタになりながら仕事をして、疲れ切った日にはよく彼のことを考えた。警察官という危険に満ちた世界で今日も優しく生きる諸伏の無事を柄にもなく神に祈る。それなのに、たまの休日に顔を合わせれば、何もなかったような顔をして「元気そうだね」と言ってお終い。

 あんな風には、ひっくり返ったってなれやしない。

「そう?」
「うん。なんか大人になるってつまらないよ」

 やりたくないことばかりできるようになる。やりたいことも欲しいものも遠のいていくばっかりだ。

「じゃあ、俺とする?」

 むすっと唇をわざとらしく尖らせた私に、彼がハハッと笑う。そして悪戯を仕掛けるハロウィーンの子供みたいな顔で、彼が私の指をそっと絡めた。「――へ?」。驚いてマヌケ声を漏らす私のことなんてまるでお構いなしに、彼はいじらしくテーブルの上の手を取った。

「も、もろふし、」
「ん?」
「あの、何して、……手も」
「意識してもらおうかなって」

 ひゅっと喉の奥で、言葉になりかけてなれなかった音が死んだ。
彼の少し高い体温も、長い指も、ゴツゴツした手の甲も、意識しない方が無理な話だ。

「分かった、! 分かったから、――離してください」

 その時の私は、お洒落なティールームに相応しくない、切羽詰まった顔をしていたと思う。毒をもられたみたいに、手は痺れて、喉は詰まる。満足に生きた心地がしない。

「もうちょっと」
「いや、無理。死んじゃうよ」
「それは困るなあ」

 名残惜しそうに離れた手。やっと酸素が心臓から巡り出す。真っ赤に茹で上がったであろう私の顔を、彼は愛おしいものでも見るような目で微笑んだ。この男、多分どこかで女を殺している。おそらくその人は幸せで幸せで堪らなかっただろうけど。

「なあ」
「こ、んどは何」
「いるの? 好きなやつとか」

 私が望んだ通り、まるで高校生が照れ臭そうに探りを入れるような仕草で、彼が首をかしげた。とうとう言葉を失った私の代わりに、隣の隣の女子二人がきゃっきゃとはしゃぐのが辛うじて聞こえた。

 それは確かに、私と彼だけの空間である。互いには互いしか映らず、大袈裟に言えばこの世界には私と彼しか存在しないような気さえした。紅茶の匂いもしない、彼氏に指を撫でられて嬉しそうに笑う女子高生の顔も見えない。私は思考なんてまどろっこしいものすべて捨て去って、口を開く。

 知っていたはずだ。分かっていたはずだ。

 それでもいざ言葉にされると照れ臭さが勝ったのか、今度こそ本当に恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな顔で、諸伏が目尻に皺を寄せる。もうそれだけで、やっぱり私は、死んでしまいそうなほどの幸福に満たされるのだ。

溢れる愛の止血法