観覧車に乗ったのは随分と久しぶりだった。ゆっくりと流れていく景色が時の流れまで遅くなったような錯覚さえ起こさせる。狭い狭い室内では、私が漏らした小さな感嘆の声もそれを笑う彼の息遣いもよく聞こえた。

「……笑わないでください」
「すまん」

ちっとも悪いと思ってないくせに。
 零さんは外に目をやって、綺麗だなと一言言った。窓の外に見える海は太陽の光を反射させてキラキラしていた。本当に綺麗だと私も思う。下を見れば車と人がこめつぶみたいに小さくて、どんどん離れていくそれらがなんだか不思議。昔は怖いもの見たさで下を見ては、涙目でお兄ちゃんの服を握っていたのに。

「観覧車も、たまには悪くないな」

窓から目を零さんに戻すと、彼は真っ直ぐに私を見ていた。

「……そんなに喜ぶ顔が見れるなら、」

 彼の髪が海と同じく、透き通ってきらきらとしている。綺麗だった。綺麗で、今すぐにでも消えてしまいそうで、どこか危ういこの人が私は怖かった。だから、私はいつかと同じように彼の服を握った。お兄ちゃんが着ていたような安いタンクトップではないのに、あまりに強く握って少しシワになる。それでも、どこにも行って欲しくないと、どこにも行けない狭い観覧車の中で思うのだ。

「じゃあまた、一緒に乗ってくれますか」

 たった500円で買える約束が欲しい。それが死ぬまで有効なのならば尚更に。結局彼はそんな安い約束でさえ私にはくれず、代わりに優しくキスをしてくれた。彼はいつも曖昧なものは何一つ与えてくれない。


 彼女は、生前おばあちゃんが住んでいたという古風な一軒家に一人で暮らしていた。

『父と母はグアムに住んでます自由な人たちですよね』

食事の帰り道、送ると言って彼女の家の前まで来て驚いた俺に、彼女が教えてくれたことだ。彼女曰く自由だという両親に似たのか、彼女も又自由な人間だと俺は思う。心の赴くままに生きてたまに失敗する彼女に惹かれたのは今考えれば偶然では無かったし、後後のことを考えてももうきっと出会えないだろうと思う。

『……寂しくはならないのか』

 この広い家を前にして、その在り来りな質問を彼女は何度も訊かれてきたのかもしれない。彼女は短く俺の名前を呼び、彼女の中でもう何十回目かもしれない答えをくれた。

『寂しいときは寂しいと思っていいんです』

 ”逃げるな”と──いや”私は逃げない”と──彼女は詰まるところそう言いたかったのだと考える。

「零さんも一本飲みます?」

 彼女は縁側から顔を出して訊ねた。それを明日も朝早くから仕事があることを理由に断れば、特に気にする風もなく缶ビールを開けてコップにひとり注いでいる。普段は髪を巻いて短いスカートだって履きこなす彼女が、縁側で月見酒を飲むのが最高なのだと聞いたときはこれまた意外なことをと驚いたのを思い出す。今となってはその月見酒の一員に自分もなっている訳だけれど、確かに最高だ。

「零さんって休みあるんです?」

 無いと答えれば、彼女はやあっぱりと頷いた。そしてビールが美味しいと唸る。そんな彼女がどうしようもなく好きだった。俺は彼女が縁側に残した缶の方のビールを一口飲む。

「美味いな」
「飲まないんじゃないですか」
「一本は飲まないと言ったんだ」

 一口も飲まないとは言ってない。こんなに月が綺麗な夜に、彼女と酒を飲まないなんて損だろう。「屁理屈」なんとでも言ってくれ。最高の夜で気分が良い。

「休み欲しくないですか」
「……仕事をするのは生きてるのと同じなんだ」

 まあ休みは欲しいけど。俺がそう言えば、ちょっと笑ってそうですかとしか言わなかった。

「じゃあ私が零さんを好きなのと同じですね」

 俺もちょっと笑った。彼女がまたビールを飲んで美味いと言った。俺が名前を好きなのは生きていることじゃあない。生きている理由だ。


 私の家にはベッドと言われるものがない。小さい頃からおばあちゃんの家ではお布団と決まっていて、それが少し楽しみでもあったのだ。今更ベッドを運び込んだところで天国のおばあちゃんが夢見に文句を言うとは思わないけれど、何となくこの家にそいつを置く気にはなれないので今でも布団を毎日敷いている。零さんも泊まるときは勿論お布団だ。布団を二枚並べて眠るのは、彼の家のキングサイズのベッドで寝るより楽しい。

「明日は何時に行くんですか」

 天井の黒いシミがそういえば昔は人の顔みたいに見えて怖かった。今はただのシミなのに。

「7時には出る」

 日曜の朝7時はそういえば決まって見ていたアニメがあった。あの頃は早起きなんて苦ではなかったのに。

 どうして怖いという感情も朝早く起きるという習慣もみんな無くなって誰かを愛するようになるのだろう。大人になるってつまりどういうことだろう。誰に聞いても分からない。

「零さんのお布団に行っても宜しいでしょうか」

 寂しいときは寂しいと思って良い。おばあちゃんは昔私に教えてくれた。ずっとそれを信じている。でも寂しいと思うだけで素直に言えないときはどうしたらいいのかまでは教えてくれなかった。

「よろしいですよ」
「失礼しまあす」

 狭い観覧車の個室でキスをする。狭い庭に浮かぶ月を見ている。狭い布団で肌を寄せて眠る。私と彼が生きる世界は決して広くはない。

生きたいほど愛しい今日よ

title by 草臥た愛で良ければ