私の卒業を待っていたかのように、祖母が亡くなった。76歳になった3日後のことだった。
突然ではなかった。冬の間から随分と体調が悪くなっていることは聞いていたし、入院してからは幾度か見舞いにも行っていた。忙しい時期にわざわざ来ることないよと、何度も祖母は言ったが、私が行くと嬉しそうですねと看護師さんたちは言っていた。素直に生きられないのは我が家の血筋である。
亡くなった祖母は心底安らかな顔をしていて、この世にもう悔いはないのだと言っていた言葉通り、心置きなく逝ったらしかった。棺には祖父との写真が収められ、花に囲まれた祖母の顔は心なしか嬉しそうでもあった。彼女は、死ぬまで祖父を愛していた。それがどれだけのことであるかを、おそらく私は理解していない。しかし、そのことを私も父も知っていて、それは私たち家族の間では当然のことだった。
あの家から降りてくることを拒んだ祖母。魚屋の亭主として生を全うした祖父の影を近くで感じながら生きることを、祖母は最後まで嫌がっていた。結果、体調の悪化に私たちが気づいた頃には病も進行し、発覚から入院、そして最期に至るまで随分と短い間であった。
『もう、長生きなんかしたくないんだよ』
そう言って、泣きたいのか笑いたいのか分からない顔をした祖母に、かける言葉はなかった。それが祖母の唯一で、一等強い願いであるなら、私のどんな言葉も慰めにも気休めにもならないのだから。
そっかと言って、皺だらけの手を撫でる。情けない孫の顔を見ながら、祖母は優しく笑っていた。
『あんたは、幸せになれる恋をしなさい』
それが、祖母からもらった最期の言葉である。
母との別れ。友との別れ。さまざま別れがあった。『人生は出会いと別れ』と言い切った偉人がいたが、まさしくその通りなのだと思う。私の人生にも別れがあった。その分の出会いもあった。どれも美しく、忘れがたく、そして強烈な感情を私の中に残していった。
海辺に立ち水面で反射する光を目で追えば、日に焼けたせいか、少しだけ潮風が染みる。あ、と思った。その瞬間にはもう手遅れで、涙がぽろんと落っこちていた。
風が染みた。日に焼けた目に、しょっぱい海の風が染みたのだ。
手持ち無沙汰で家を出てきてしまったせいか、落っこちてくるものを拭うものがない。誰の目にも止まりたくない。そう思うのに、季節外れの海にも人はちらほらいるのである。
蹲って、抱えた膝の間に顔を隠す。下を向いたら鼻水まで出てきてしまって、これはいけないと思うのに、どうしようもなかった。
‘おばあちゃん’ 波音にかき消されるくらいの声で呼んだ。私以外の誰にもその声は届かなくても、祖母にはきっと届くのだ。海の上にいる。雲の上にいる。祖父と二人で私を見ていて、そんなところで泣くんじゃないよと言っているはずだ。
「——名前さん!」
どのくらいそうしていたか、と思う間もなくすぐだった。
砂浜を駆ける足音。私の名前を呼んだのはよく知った声だった。
「仙道くん、」
「どうしたの、こんなとこで」
彼が慌てていると分かった。無理もない。春の海で、女が一人、しゃがみ込んで泣いているのだ。ましてその女はよく知った人間である。
珍しく余裕のない顔で、仙道は私のそばにしゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ。涙に濡れ、恐らくは砂だとか汚れだとかがついた私の顔を。彼の長い指が伸びてきて、顔に触れた。涙を拭ってくれようとしているのか、砂を払おうとしているのか分からなかった。私の頬と眦を滑る、彼の手つきにだけは覚えがあった。
「……泣いてる」
悲しそうな声だった。去年の夏、大会で負けた時も、私が卒業した時も、そんな声は聞かなかったのに。彼は、何故だか心底悲しそうな声を発した。
私の顔の上を滑っていた彼の指が、今度は耳のほうへ近づいていって。それから彼の大きな両の手が、私の両頬を包む。
あっという間だった。唇の端っこと、眦、それから額に。彼の唇が触れた。触れるだけのキスだった。ただ優しくて、私を慰めるためだけにあるような、そんなキスだった。
「突然だね」
「……驚いたら、泣き止んでくれるかと思って」
「そういうことなの?」
「そう。お願い、泣かないで」
少しずつ溶かされる。胸の中に巣食って大きくなった寂しさが、少しずつ少しずつ彼の体温に溶かされて、海に流れ出していく。
うんと頷いてから、それから目を閉じた。彼がキスをしてくれる、それだけに期待して。
浅ましく、欲深く、それでいて寂しさを隠しきれない私に、彼は望み通りキスをしてくれた。触れて、それから長いこと触れ合ったままでいた。幸せで、嬉しくて、どうしようもない寂しさもまだあった。でも、それでいいのだと思う。
私は大切な人と別れたのだから、寂しいままで、きっといいのだと思えた。
「泣き止んだ?」
「うん」
「悲しいことがあったの?」
「……うん」
少しだけ迷って、それから「あのね」と話し始めた。誰にも言う機会がなかったことを、彼に言ってしまおうと思って口を開く。家族を亡くしたのだ。死は平等にあるもので避けようがない。だから悲しみに暮れる必要はないのだけれど、寂しさもまたどうしようもないものなのだ。私だけの、私と父だけの寂しさを、彼にも知ってもらいたかった。
祖母が亡くなったという私の話を、仙道はうんうんと頷きながら、最後まで優しく聞いてくれた。大きな手で私の手を取り、手の甲を太くて硬い指で撫でながら、私の話を聞いてくれたのだ。
その頃には本当に涙もきちんと止まっていて、私たちは爽やかな海の風に吹かれていた。春が過ぎ去りそうな頃の日曜日の、暖かな日だった。
新生活は順調だった。高校より遠いところにある学校へ、毎朝お弁当を作って向かい、授業を受けて、クラスメイトと話して笑って、山ほど課題を抱えて帰る。父と顔を合わせる機会はますます減ったが、夜や朝に見かける顔は変わりないように見えた。
大丈夫な時もそうでない時も、大丈夫に見えるように生きることが、大人になるということなのかもしれない。高校を卒業したくらいで「大人」を語るなんて笑われてしまいそうだが、しかし、そう思うのだ。私たちは時間の流れに背を押され、否応無しに大人の階段を登らされる。なりたくもないものになることもまた人生なのだ。その中で少しでも自分の思いに沿うように努力する。それだけが、私たちにできることなのだと、切に思う。
新生活が始まり、祖母が亡くなり、様々なことが変わっていった。変化もまた時の経過の宿命である。様々なことが変わっていくことをその都度に惜しんだが、その一つに仙道の存在があった。仙道彰という男は、ふらふらと広い海を泳ぎ回る自由な魚のように見えて、その実、まだ高校という池の中、もっと言えばバスケットコートという狭い水槽にのみ生きる男なのだ。私が高校を出ると、途端に会う機会は減った。あの背の高いツンとした頭を、高校の廊下や窓の向こうに探すことはできなくなったのである。
だからその日、私の家の下で待っていたかのようにして立っている姿を見た時、私は驚き、小さく「えっ」と声を漏らした。声に気づいて振り返った仙道は、階段を降りてくる私に手を振って、そうなることが必然であったかのように「どうも」と笑った。全く、いつも通り、数ヶ月前まで頻繁に見ていた姿と変わりのない仙道だった。
「どうしたの。何か用事あった?」
「んーまあ、そんなとこです」
「なに?」
仙道は私の質問に答えなかった。曖昧に笑って、はぐらかした。私はそれを、どうせ彼お得意の気まぐれだろうとさして気にもとめず、それ以上の深追いはしなかった。
肩から大きめのカバンを背負った私を見て、仙道が「どこ行くんですか」と尋ねる。行き先は祖母の家だった。父と私で手分けして少しずつ家の整理をしているのだ。故人の家だ。今後住む予定もない。どうするかは後で考えるとして、とにかく綺麗にはしておこうという話になったのだ。大雑把で豪快だった祖父とは違い、祖母は繊細で神経質でとても几帳面な人だったから。綺麗にしておかないと雲の上から怒って落ちてきそうだ、と。そう言って笑った父に、もう母を亡くした息子の悲しみはなかった。ただ少しだけ寂しそうではあった。
「俺も行っていい?」
「いいけど。せっかくの休み、そんなことに使っていいの」
「ん。荷物持ちとか、掃除なら俺だって」
「できる?」
「たぶん?」
仙道に、家の掃除がきちんとできるイメージはこれっぽっちもなかったが、着いて行きたがるのにも何か理由があるのかもしれないと思ってそれを了承した。実際人手があった方が助かるのは本当なのだ。
財布をズボンのポケットに押し込んで、ほとんど手ぶらだった仙道は私の肩から荷物を取ると、軽々とそれを自分の肩にかけた。それから駅へ向かって、「行きましょうか」と言う。彼と一緒に学校へ行ったことなどなかったが、なんとなく懐かしさがあった。
大きな荷物を持って歩く仙道の姿を何度も見た。その荷物がバスケットに関わるものでないことだけが違和感だった。
駅から電車に乗る。20分乗って、バスに乗り換え坂を登る。高台の上にある祖母の家は見晴らしがよく、交通アクセスさえ除けば立地はよかった。現に辺りには別荘らしき建物もちらほら見える。祖母はよく「ここは静かでいい」と言っていた。
道すがら、私たちも少しだけ会話をした。多くはなかった。会話の中で、私は仙道に高校3年生としての生活やバスケットのことを尋ねた。陵南高校バスケット部の主将を引き継いだ仙道は、慣れないながら毎日励んでいるという。
コートに立って、礼をする。その時に背番号4を背負い、掛け声をかけるのは魚住から仙道の役目になった。彼は誰よりも高く跳び、速く駆け、点を決めるだろう。
プレーする姿を直接この目で見たことはなかったけれど、ずば抜けて上手いと神奈川中の噂になる男だ。その姿は容易に想像がついた。私は話を聞いて、「そっか」と言って言葉に悩んだ。頑張ってるねと言うのはプレッシャーになるかもしれないし、偉いねと言うのは私の立場で言うべき言葉ではない。凄いというたった一言が、本人の尊重すべき何を軽視し、相手にどんな圧力を与えるか。想像がつかないのなら簡単に発するべきではないのだ。
「……見たいな」
迷って、悩んで、結局言えたのはそれだけだった。
「名前さんが来てくれたら、俺100点決められるかも」
バスでの会話はそれが最後だった。どんどん窓の下の方へ下がっていく海を見ながら、言うべきではないと切り捨てた言葉たちがぐるぐると私の頭の中に巡っていた。
祖母の家で、淡々と片付けを進める私のそばで仙道もそれを手伝ってくれた。棚や引き出しにあるものを出して、箱に詰めたり、不要なものは捨てたりを繰り返す。仙道は時々私に「これは?」と訊きながら、存外丁寧な手つきで作業を進めた。どこまでも器用な人間なのだと思った。重いものは仙道が積極的に持ってくれたおかげで楽になったし、高いところにあるものも仙道がいれば危ない脚立に乗る必要もない。夕暮れを迎える前には、その日やるべきことをすっかり終えて、私たちは家の縁側にいた。海の見える縁側は、祖父と祖母が一等気に入っていたものだ。小さい頃、よくここで二人と話をした。私は二人の間にいて、学校でのことや父のことを話した。母の話はしなかった。すれば決まって、悲しそうな顔をすると知っていたからだった。
「お疲れ様。手伝ってくれてありがとう」
「いえ、いい気晴らしになりました」
「そう? なら良かった」
仙道は、私が渡したお茶のペットボトルをぐびぐび飲んで、爽やかに笑った。いかにもスポーツマンらしい笑顔だった。海からの風が、疲れた私たちの周りを包む。夏を前にした湘南の海は、今日は穏やかである。
「それ、名前さんの家族?」
仙道が、私の手の中にある写真を指差す。そうだよ、と言った。ほとんど唯一に近い家族写真だった。祖父母と父と私が映っている。私の小学校の入学式の時の写真だった。その時、まだ父と母は夫婦だったが、その写真に母の姿はない。
そのことに仙道が気づかないはずがなかった。家族写真というのは往々にして両親が在るものである。そのことを私はよく知っている。父子家庭で育ったという事実を恥じたことは誓ってない。誓ってないが、それを公にすることもまた望まなかった。普通で大多数を占めるものの力が、この国ではちょっとばかり強過ぎるのだ。
「8歳の時にね、出て行ったよ。その前からほとんど家にいなかったけど」
「え?」
「お母さん。映ってないでしょう」
ほら、と写真を仙道の方へ見せる。去年のクリスマスを二人で過ごした時、両親が離婚していることを仙道に話した。彼は私がそのことについて触れるとき、いつもなんでもないことのような顔をして聞いていた。ただ一言、「そっか」と言って。他の人がするように、私を傷つけることも慰めることもしなかった。ただ、私の話を受け入れてくるのだ。
私はかつて、母を「魚みたいな人」だと彼に言った。どんな意味でもなかったはずなのに、仙道があの時「綺麗な人だったんだ」と言ったから。それから、私の中での母は可哀想な人だけではなくなった。綺麗な人であったのだ。どこか生気がなく、頼りなく、人の温度に弱い。触れるとすぐに火傷を負ってしまいそうな雰囲気を、あの人は持っていた。
「俺の父親も、俺が10歳の時に出て行きましたよ」
「そうだったの」
「はい。母親の実家が地元で力のある家で、父は婿養子だったんですけど、色々上手くいかなくなったみたいで」
「そっか」
仙道の話を聞いた。彼が自分の生い立ちを語るのはとても珍しいことのような気がした。彼の目を見て、彼の心に耳を傾ける。私は彼の痛みや喜びを知らない。他人であるから仕方のないことなのに、今はそれがひどくもどかしい。
少しだけ怖かった、恐ろしかった。彼に絡め取られていく四肢が。彼しか見えなくなる目が。彼以外に動かされることのない心が。何もかも、十九年、経験したことのない感情が怖くて恐ろしくて、私は震えている。恋とは何たるものなのか、私は知らない。今の私は得体の知れない感情に支配され、震える感情の奴隷である。
「……いろんな道を経て、私たちはここにいるんだね」
「不思議っすね」
これまで経験してきた寂しさや悲しみが、すべて必要なものであったと思いたい。最善の今に至るために必要な、私が人として成長するために必要な過程であったのだと。誰もそんな曖昧なものを保証することなんてできやしないと分かっているけれど。それでも、今、仙道と出会い笑って話をしている今があるなら、これまでのことは何ひとつ無駄ではなかったと信じたいのだ。
「今日、会えて良かった」
彼は真面目な顔で「会いたかった」と言った。それに、私もと言った。大いなる勇気を要する言葉だった。会いたかった。仙道に会いたかった。いるはずのない窓の外に、雑踏の中に、彼の姿を探すほどには、私も彼に会いたかった。
それなのに私たちは、会う理由となりうる決定的な言葉は何も交わさず、ただ「同じだね」と言って笑い合った。それだけだった。付き合おうとも、好きだとも言わなかった。関係性に名前がつくことをきっとどこかで恐れていて、その恐れを相手に悟らせないことに必死だった。私たちはまだ若かった。若いからこそできた恋だったのに、それを若く幼いからこそ大切にすることができなかった。私たちには、いつも燦然たる‘今’という瞬間があって、その煌めきを少しでも損ねる可能性のある道は選び取ることができなかった。