冬の寒さに似合わない陽気なメロディーは、世界で一番幸せそうな音色をしている。
誰も彼もが寒さに身を縮こませ下を向いて歩いてもおかしくない季節に、皆が顔を上げているのは街路樹を彩る美しいイルミネーションのおかげだ。駅前の大通りに植えられた銀杏の木に色とりどりの電飾が光る。小さな駅の一角にしては気合の入ったその飾りは、地元では有名なデートスポットだった。
クリスマスが近い。斜向かいのお肉屋さんはクリスマスに向けて仕入れで慌ただしく、父のトラックも近頃は駆り出される頻度が上がっている。商店街には「メリークリスマス」と書かれた横断幕が掲げられ、いかにも地元の商店街という風貌とは不釣り合いな飾り付けで、そのイベントを盛り上げようとしていた。
とはいえ、魚屋には繁忙期と言えるほど忙しくもないため、例年家でおとなしくそれが過ぎるのを待つか、惣菜屋のおばちゃんの手伝いに出向くかの二択だった。今年はどうだろう。壁にかけられたカレンダーの25の数字の下の白枠には、未だ何の予定も書かれていない。父は、おそらくその日も仕事だ。
「名前さん、クリスマスのご予定は」
ポトリ。箸から卵焼きが落ちる。ご飯の上に落ち、転がって、地面に落ちる寸前で横から伸びてきた掌がそれを受け止めた。仙道だ。「セーフ」と言って、手に乗った卵焼きをパクリと口に収める。あっという間の出来事だった。
「……クリスマス?」
「うん。家族? 友達?」
屋上で、仙道とご飯を食べていた。いつもそうしているのではなく、不定期に思い立った時にここへ足を運んでいるのだ。その時に仙道がいれば一緒に食べるし、いなければ一人で食べる。12月になり、出席日数の足りた生徒は既に登校を減らし始めていた。専門学校への進学を決めた友人もその例外ではない。いつも昼を共にしている友人がいない時、私は屋上へ来ることが多かった。
ふと湧いてきたシーズナルな話題に、不自然に聞こえない程度に口ごもる。クリスマス。12月になれば、毎日のように目にする単語だ。みんながそれに浮かれている。もの寂しいはずの冬を色とりどり煌びやかな季節に変えた功績は大きい。
「予定ないよ。友達は受験とかあるし、親は仕事だし」
「クリスマスも仕事なの?」
「うん、毎年」
父の仕事に休みはない。年がら年中働いて、それを生きがいにしている人だ。店が休みの日も、仕入れだったり他の人の手伝いだったり町内会の活動だったりと忙しない。家にいるのは夜くらいで、夕飯の時に顔を合わせなければ、丸3日喋らずに過ごすことも珍しくなかった。
そんな生活も今に始まったことではない。少なくとも、母と別れてからはそうだった。片親として経済面で苦労をかけていることもあるし、単純に母のいない寂しさを忙しさで埋めようとしていたのかもしれない。そもそも父はイベントごとには疎い人で、認識しているのは正月くらいなのだ。毎年、カレンダーのクリスマスの日には、父の帰宅時間だけが記されている。
「その日、体育館の点検で部活午前中だけなんだけど」
「……ん?」
「午後、会いません?」
「25日に?」
「そう」
膝の上に肘をついて、「どう?」と私の顔を覗き込む仙道はここが屋上であって、他の人の目があるということも微塵も気にしていないようだった。真冬に屋上でご飯を食べようという変わった人間は少ないが、少ないだけで私たち以外にも一定数は存在しているのだ。仙道の背の向こう側、お菓子を囲んでいた女子たちの目が、その大きな学ランの背に向けられているのを、きっとこの男は気づいていない。あるいは、真っ当に無視している。
クリスマス。それは不思議な一日だ。ただの12月の一日であって、その日に生まれたと言われている神を日本人の多くは信仰していない。もちろん、世界のあらゆるイベントごとの‘楽しい部分’だけを切り取って味わうという宗教観念の薄さを批判する気は一切ない。楽しいことに便乗したい気持ちは私にだってある。
だがしかし、クリスマスというのはややその中でも厄介で、その日に誘うということ自体が一定以上の意味を持ってしまうのだ。特に恋愛関係の方面で。
「仙道くんこそいいの?」
「え?」
「クリスマス、私と一緒で」
仙道がにっこり笑って、うんと頷く。その瞬間を心待ちにしていたような気がした。狡いと思う。彼に誘ってもらっておいて、挙句、「名前さんがいい」という言葉まで欲しがるなんて。でも、どうしても。心に浮かぶ微細な不安をそのままにするのは落ち着かないから、だからどうしても、自分というものを彼の言葉で肯定してほしかった。
彼が、そうしてくれると知っていたから。
父も父で、12月後半の予定が埋まりつつあるのか、カレンダーに向かってペンを握る。25日に書かれた私の字を見て、「お」と小さな声が上げる。恥ずかしくて聞こえなかったフリをして、何事もなかったようにと「おやすみ」を言う。父親の生暖かい視線に晒されて、平気な顔をしていられるほど、私はまだ大人ではないのだ。 目まぐるしい季節は、師走の名に相応しくあっという間に過ぎた。冬休みだの、休み明けの統一試験だの、その先の受験だのと話をしていたらクリスマスを迎えていたのである。
クリスマスというものを私はよく知らない。小さな頃にはケーキとチキンを食べて、父親からプレゼントを渡されたような記憶はある。サンタさんから預かったのだとか何とか理由をつけられて、私は純粋にそれを喜んだ。しかし、それだけだ。
例えば家族以外の人間と過ごすクリスマスはどんなもので、何をするのか。私は知らない。知らないことは知っている人間に聞けば良かったのだが、如何せん、友人にクリスマスに男の人と過ごすときはどうしたらいい?と聞く勇気がなかった。根掘り葉掘り聞かれた時に、説明できるような肩書きや約束を、私と仙道は持っていなかった。
当日。仙道からは家まで迎えに行くと言われていた。凍てつくような冬の寒ささえなければ、駅前でいつまでも待てたが、今の時期ならそうも言っていられない。大人しく言うことを聞くことにして、私は髪と服の支度を済ませ、彼を待った。
時計が14時を示す少し前。インターホンが鳴る。父はすでに仕事に出かけた後だった。はしゃいでいると思われないよう、努めてゆっくりと玄関に向かう。ドアを押す手は柄にもなく緊張すらしているようだった。
「お待たせしました」
「早かったね。部活お疲れ様」
品のいい黒のロングコートをサラリと着こなした仙道は、まさにモデルのようだった。その姿にますます緊張が高まるのが分かる。逸る気持ちをそうとは見えないように押し隠しながら、カバンを持ち、ガスと電気を消したことを確認して家を出た。
歩き慣れた商店街を抜け、電車に乗って、駅隣の街に来た。この辺りでは一番栄えていて、店の数も多い。クリスマスということもあってか、普段よりもさらに人も多いようだった。
土地勘のない仙道が「デートで行くようなところ」とリクエストして、私が挙げた場所だ。足を伸ばせば鎌倉や横浜もその候補に上がるが、そこまで行くと流石にやりすぎな気がした。その点、ここならアクセスも良く、歩くだけでも楽しいし、それっぽい気分も十分に楽しめる。地元をよく知る友人に言ったら、中学生みたいと言われそうだが、私にはそれで十分だったのだ。
「どこか見たいところある? あの先にお店がたくさんあるんだけど」
「……寒いけど、名前さん外歩いても平気?」
「ん。平気。慣れてるからね」
じゃあ歩こうか。仙道が言う。彼の長い足に遅れないように気持ち大きめに一歩を踏み出す。並ぶだけで長い足だと分かるし、おまけに顔もいいので、先ほどからすれ違う人の目はみんな仙道に向いている。やっぱり仙道は、どこにいても目立つ男だった。
店が集中するエリアに足を運び、外から店の中を覗きながら歩いた。気になったお店に入って、何も買わずに「いいね」とだけ言って外へ出る。お金の代わりに時間と好奇心だけは無限に存在する、高校生だからできることだ。
その中で、入ったお店の一つが雑貨屋だった。数年前に来た時の記憶にはない。外観からして真新しそうな洒落たお店だった。
入りたがったのは仙道で、私はもちろんいいよと言って後に続く。中には女の子2人組と、カップルが1組。私たち3組目が入ると、店はすぐに窮屈になる。横幅はないが、縦に大きな男が一人いるのでそのせいでもあったかもしれない。
仙道は見上げるほどの背を丸め、大きな手で小さなそれらを壊さないようにして、そっと置かれたものを手に取る。ピアスだった。ブルーの小さな石があしらわれたシンプルなフック型のピアスだ。
色とりどりのストーンの中、迷いのない動きで、ブルーを選び取る。仙道の手の中に収まるとそれはますます小さく見えた。仙道はそれを興味深そうに眺めて、石を指で撫でた後、それを掲げて、私の耳元に近づけた。
「似合う」
甘やかな響きをしていた。少なくとも、私にはそう聞こえてしまった。それなりの慈しみと年相応の下心。そういうものがそこにはあったようだった。人目のあるところで、——否、人目のないところで言われたとしても同じことを思ったとは思うが——露骨に向けられた恋心じみたものが恥ずかしくて照れ臭くて、でも、それを嫌だとは思わない。
一度、キスをしたのだ。人生で初めてのキスを、仙道とした。
それから彼や私がそのことについて意味を問うことはなかったが、以前と全く同じにはなれない。私の中の仙道が変わってゆく。ただの後輩ではなくなった。じゃあなんだ、と言われても、その答えを今は持たないけれど。
「買っていいですか。クリスマスだし」
「でも、」
「俺がつけてほしいから。できれば、……今日とか」
その言葉に流されるようにして頷いた。そういうところにも仙道という男の器用さが表れているようだった。決して押し付けることはせず、確実に願った流れに持ち込むところ。結局、私は仙道の見立てたピアスをもらい、お店を出たところでそれをつけた。一応これも、と渡された空っぽのラッピング小袋に、今日つけてきていた自分のピアスを入れて、カバンにしまう。私に耳についたピアスを見て、仙道はもう一度「似合う」と言った。
いかにもデートらしいデートだったと思う。他に経験がないので比べようがないが、私が一般常識として知っているデートとそれは一致していた。華やいだ冬の街を並んで歩き、私は彼からピアスを贈られた。お返しに、と次に立ち寄ったお店でリアルな魚のキーホルダーを買ってプレゼントしたら、仙道に「名前さんらしい」と笑われて。嫌なら私がつける、と言えば仙道は「嫌だ」と言いながらそれに自分の家の鍵を二つつけていた。実家の鍵と下宿先の鍵だという。
冬だから早くに日が沈んで、電車に乗って最寄駅に戻った。夕飯は食べても食べなくてもどちらでもいいと思っていたが、彼に誘われたので行くことにして、連れられた先は仙道の下宿先だった。
てっきり駅前のファミレスとか、そうでなくとも学生の財布にも優しい飲食店はそれなりにあるので、まさかと少しだけ驚く。嫌だって意味じゃなくて、何故の方で。
「私、手土産とか何も、」
「んー? いいよ、要らないっす」
「でも、」
「おや。彰くん、おかえりかい」
「はい。ただいま」
下宿先とはいえ、仮にも誰かの家である。となれば手土産など持って然るべきであって、今日そんなつもりのなかった私に準備はない。それでまごついていると、一階の障子が開いてお婆さんが出てきた。仙道を親しげに彰くんと呼ぶ。二人が家族であると言われても信じられそうだった。
突然の家主の登場に私は慌てて頭を下げ、「お邪魔しています」と告げた。友人の家にふらりと遊び行くのとは訳が違って緊張してしまう。仙道に向けたのと同じ優しい笑みを浮かべたその女性は、私にも「いらっしゃい」と声をかけてくれる。そこまで来て、やっぱり帰ると言い出すのは難しく、結局私は二人分の微笑に負けて、靴を脱いだ。
どうして、という思いは確かにある。しかし、仙道彰という男への少くも多くもない情報をかき集めて照らし合わせると、そういう突飛な思考と行動に飛躍するのも十分あり得るような気がして、どうにも指摘する気が失せる。現に、私が「先に教えておいてくれれば」という台詞も、彼の心には何ら引っ掛かっていないようだった。
どうぞ、と招かれた部屋。
二階の階段を登って左側にあるドアの先。一応内側から掛けられる鍵もついていて、部屋の広さも十分ある。壁際には布団らしきものが畳まれて追いやれていて、聞けば元々あったベッドは仙道の体のサイズと合わずにクビになったそうだ。納得である。
窓際に勉強机と棚があって、教科書、本、バスケ関連の雑誌に道具が乱雑に仕舞われている。自分の家とも、友人の家とも違う‘男子高校生’らしい雰囲気があった。
「ここ座って待っててください」
部屋の真ん中の置かれたローテーブル。床にはクッションが二つあって、その一つを指した長い指は私がその上に腰を下ろすとすぐに離れてゆく。仙道はコートとバッグを床に下ろすと、そのまま部屋を出て行った。
待ってる、って何を。肝心なところで彼は言葉が足らないのだ。
部屋の中をぐるぐる見回す時間も終わって、彼が床に置き去りにしたコートもハンガーに掛け終えた頃、ようやく部屋のドアが開いた。入ってくるのは仙道だと思っていたのに、声をかけて入ってきたのはお婆さんで、両手に唐揚げの皿と寿司桶を持っていた。
玄関先で見たニコニコ顔のまま料理をテーブルに置いたお婆さんは、いっぱい食べてねと言い残してすぐに部屋を去ってしまう。部屋には御馳走のいい匂いが充満し、そのテーブルの上だけを切り取れば、本当にパーティのようだった。
「お待たせしました、あ。美味そ」
「美味そ、ってこれ」
「魚住さんとこの。二人分って言ったのに、こんなに沢山」
「……純ちゃんのとこの?」
遅れて戻ってきた仙道が、テーブルの上に取り皿と割り箸、飲み物と入れるコップを並べる。これが私たちの夕飯であることは間違いないらしい。寿司は仙道が魚住の店に頼んだもので、唐揚げは下宿先の方のご好意。ここでご飯を食べたいと相談したら快く作ってくれたと言われ、ますます手ぶらで来たことが悔やまれる。
「食べましょ、あったかいうちに」
「こんなに用意してくれてたの、……知らなかった」
「まあ、サプライズなんで」
「でも、せめてお寿司のお金くらいは」
仙道の大きな手が、私を制する。
要りませんとはっきり言って、それから彼の目尻が少し下がった。
「魚住さんに名前さんと食べるって言ったら、海老たくさん入れてくました」
好きなの? 仙道が問う。私は仙道の言葉と、魚住の優しさと、懐かしさを全部一緒くたにして受け取って、うんと頷いた。魚屋の娘なのに魚がまだ食べられなかったうんと小さな頃の話。魚住の父が気を遣って、海老をたくさん握ってくれた。それが大好きだった。
美味しいだろうと笑ってくれる魚住家の人たちも、良かったなと頭を撫でてくれる父も。全部合わせて、それが大好きだったのだ。
「ありがとう、仙道くん。いただきます」
「ん。俺もいただきます」
魚住家の寿司と、出来立てで熱々の唐揚げ。寿司をクリスマスに食べるのは、少しだけ変な感じがしたけれど、でも美味しいものはいつどんな時に食べても美味しいのだ。
綺麗に握って並べられたお寿司の中の、卵焼きだけがいつもとは少し形が違っていた。魚住の父親は型で抜いたみたいに綺麗な真四角の卵を焼く。桶に入っていたそれも十分綺麗だったけれど、比べるとどうしてもまだ僅かな歪さがある。魚住本人が、焼いてくれたのだろう。後輩と幼馴染が一緒にクリスマスに寿司を食べると聞いて、何を思ったかは知らないけれど。でも、きっとたくさん優しさを込めてくれたのだろう。だから、魚住家の寿司はとびきり美味しい。
「……私、小さい時に親が離婚してて、父親は仕事で忙しかったから、クリスマスとかちゃんとお祝いしたことなくて、」
「うん」
「今日、すごい楽しい。嬉しいし。……ありがとう」
振り返れば寂しかったのだと分かる。
誰も彼もが浮き足立つこの季節に、一人きりで家にいることが。でも、私のためにと日夜働く父にそんなことはとても言えなかった。言葉にしない感情は、いずれ静かに死んでいって、それから全てに慣れてしまう。慣れない方がいいことにも、慣れる必要がないことにも、繰り返されれば慣れてしまうものなのだ。
それは覆されて初めて気づく。
寂しくないクリスマスが来て初めて、ああ、今までは寂しかったのだと分かる。それは少しだけ悲しいことだけれど、でも、今日が美しく暖かなものであるから、もうそれで十分なのだ。
「名前さん」
「ん?」
「寂しいときはちゃんと言って。一人で悲しい顔しないで」
「……そんな顔してた?」
「たまに」
仙道が微笑う。彼の言っていることはとてもよく分かった。そうだろうな、と思う。自覚もある。改善できるかどうかは別として。気休めのように「気をつけるね」と言った。頷きながら口いっぱい唐揚げを頬張る彼に、その時、咄嗟に「仙道くんもだよ」と言えなかったことを私はいつか後悔するだろうか。