唐突に春は来た。
 正確に言うならば、「春」という暖かな温度と花咲き乱れる様はまだ到来していないが、それよりも先に「卒業」という春の概念が先に私たちの元へ訪れたのである。
 昨年中に専門学校への進学を決めた私は、正月明け早々に行われた統一試験をもって受験生というものから脱していた。未だ受験の終わらない同級生とは違い、登校し、何の意味もなさない授業を受けているところである。卒業後、本格的な板前修行に入る魚住も私とほとんど同じような立ち位置であった。

 「卒業」の日がいずれ来るだろうと知ってはいた。知ってはいたが、それはもっとずっと先にある未来のような気がしていて、二月になってもどうにも実感が伴わない。一ヶ月先には自分は陵南高校の学生ではなくなってしまって、さらにそのひと月先には違う学校に通うのである。
 授業終了のチャイムが鳴る。意味のない授業をしている自覚は教師側にもあるのか、最近では授業後の課題すら提出の義務がなくなった。数ヶ月前の受験を控えた熱意ある授業とは打って変わって、やる気のなさそうな退職間近の教師がただ教科書を読み上げるだけで終わるのだ。それでも受験の終わった生徒が学校へ来るのは、残り僅かになったクラスメイトとの時間を過ごすためだった。

名前

 午前で授業は終了し、残って友人と昼ごはんを食べる者、早々に帰宅する者、最後に部活に顔を出す者。皆、過ごし方は様々だった。
 眠そうにあくびをするクラスメイトの間を縫って、一際大きな体が近づいてくる。魚住だ。体躯のせいか、小さく見えるカバンを肩から下げて、私の前に立つ。話すとき首痛いでしょ、と笑ったのは礼儀知らずの彼の部活の後輩である。

「今日、母さんから啓治さんに渡すものがあるから寄ってほしいそうだ」
「私が取りに行けばいいの」
「啓次さんが名前に行かせると言ったらしい」
「ふ〜ん、分かった。純ちゃんもう帰るなら一緒に行くよ」

 魚住と並んで学校を出る。同じ電車に乗り、同じ道を歩いて三年間同じ学校へ通った。なのにこうして並んで学校へ行ったのは、それこそ入学式の日だけだった。魚住は三年間バスケットボールに打ち込み、朝も昼も夜も、いつもあの体育館にいた。私は離れた場所で、その音を聞いていただけである。
 最後に、彼のバスケットボールを見なかったことを少しだけ後悔している。魚住は板前になるために、バスケットを高校で終えることは薄らと知っていたのに、彼に「見に行っていいか」と聞く勇気を私は最後まで持たなかったのだ。
 私が友人と遊んだり、店の手伝いをしたり、海を見たりして浪費した放課後の時間、そのほとんどを彼はバスケットへ捧げていた。それは最後にどんなものに代わったのか、この目でそれを見たかったな、と今更ながら考える。

「純ちゃん、調理の学校行くんでしょう」
「聞いたのか」
「うん。お父さんが教えてくれた」
「お前も栄養の勉強をするらしいな」
「そう」

 人生がここまで十八年あって、その半分以上をこの男と過ごしてきた。長かった。ずっと一緒にいるほど仲が良かったわけではないが、それでも長い時間を共有してきた。あとひと月で、その道が初めて別れる。同じ道につながる日はもうないかもしれない。そう思うと、何だか感慨深い思いがする。

 魚住は板前を目指して調理学校へ。父親のもとで本格的な修行も始めると聞いている。私は栄養の勉強をして、それ以降はまだ未定だ。私には、魚住と違って明確な夢や目標があるわけではない。ただ、料理は好きでそれなりに得意で、それが自分のアイデンティティの一つである気がして、それを磨いてみようと思ったのだ。ただ、それだけだった。

「啓次さん喜んだだろう」
「どうだろう、多分ね。いいねって言ってたよ」
「それは喜んでるんだよ」

 電車が最寄駅に停車して、ガタンと大きく揺れる。反動で私の体も揺られてバランスを崩したとき、手のついた先は魚住の体だった。勢いをつけてぶつかったのに、何でもないことのように大きな手が私を支えて「大丈夫か」と尋ねた。「大丈夫」と言って、「ありがとう」とも言って。それから、その大きな体に、たくさん支えられてきたのだと実感する。
 道は別れる。でも、それは人としての別れではない。同じ町に、同じように家がある。繋がりは消えず、彼はこれからも私の人生に存在する。それがどれだけ素晴らしいことかを、別れの目前にてようやく理解した。

 大切な幼馴染に心秘かに感謝を告げると、その彼が改札を抜けたところで何やら神妙な顔で「一つ聞いてもいいか」と切り出したので先を促す。進路の話ですら、そんな顔は見せなかった彼が。

「……仙道と、付き合ってるのか」

 何を聞かれるのかと思った矢先、魚住がそう尋ねた。
 思わず吹き出すと、彼の眉間に皺が寄る。怖い顔がより一層怖く見えるから、やめた方がいい。客商売には向かない顔だ。

「改まって聞きたかったことって、それ?」
「悪いか」
「いやいいけど。純ちゃんもそういうの興味あるんだ」
「……早く答えろ」
「あー……付き合ってないよ? そういう話してないし」

 私の答えが意外だったのか、魚住が目を丸くする。気持ちは、確かに分かる。よく一緒にお昼を食べているし、彼は時々クラスに顔を出していくし、廊下ですれ違う時に手を振られることなんかしょっちゅうだった。極め付けは、あのクリスマスの日である。魚住が、私たちをそういう関係であると捉えても無理はない。

「……でも、好きなんだろう」

 魚住の声が僅かに下がる。それは問いかけるというよりも、確かめるに近かった。もう答えは分かっていて、一応念のため聞く。そういう問い方だった。
 何もかも、長年一緒にいた幼馴染に明け透けになっていることは恥ずかしいけれど、ここで嘘をつくわけにもいかないし、その必要もない。肩から下げたカバンの持ち手を強く握って、小さく「ん」と頷いた。

 卒業式前最後の行事は、任意参加の球技大会だった。三学年合同で、クラス内でチームを組み、学年関係なくトーナメントが組まれる。1年、2年はほとんど全員が何かしらの種目に参加するが、3年は受験がないか早く終わる人間のみが参加するので、参加者は学年の半分以下になる。
 今年は出なくていいかなと思っていたけど、仲の良い友人が暇なら出ようよと言うので、確かに暇だからいいかとそれを受けた。進路は決定済みで、春からも家から学校に通う私に新生活の準備はないに等しい。それなりに課題はあるが、球技大会に出られないほどではなかった。

「バスケットボール?」
「知らなかったけどそうらしい」
名前さんできるの?」
「逆にできると思うの?」

 私がそう言うと仙道は苦笑して、肯定も否定もしなかった。それはすなわち肯定である。
 午前で授業が終わった日の昼休み。まだ午後から授業もある仙道が、明日は一緒に昼食べませんと昨日誘ってくれたので、わざわざお弁当を用意してきた。からりと晴れた空の下、上る話題はやっぱり球技大会のことだった。昼休みにも各クラスで練習している様子が、屋上からならよく見える。
 私が安易に「いいよ」と参加を了承した球技大会は、種目がいくつかあってその中から選択して出るのだが、友人は元々バスケットボールで出場したかったらしく、知らない間に私もそのメンバーに名を連ねていた。そう時間もないし、卓球だとかドッチボールだとか、そういうもっと練習があんまり必要のない種目に出ると思っていたのだ。完全に誤算だった。

「じゃあ練習とかしてるの」
「ちょっとね。下手っぴだけど」
「……俺、教えようか」
「嬉しいけど、流石にもったいない気がする」

 強豪・陵南高校のエースがど素人の私にバスケットを教えるなんて、側から見たら笑ってしまいそう。いくらなんでもと私は冗談のつもりだったのに、すっかり本気になってしまったらしい仙道が今度の日曜は空いているかなんて予定を聞いてくる。空いているけど。わざわざ部活がオフの日に、私にバスケット教えるなんて、それってなんか悪い気がする。

「いいじゃん、日曜も名前さんに会えるし」
「……仙道くんがいいならいいけど」
「俺も体動かしたいし。ちょうどいいです」

 仙道はそう言って鼻歌を歌いながらご機嫌で、パンの最後の一口を齧った。大きく開いた口に大きなカケラが飲み込まれる。つい先日の魚住とのやりとりを思い出しながら、私もいつの間にこの男の腹の中にいたのだろうなと思った。

 約束の日曜日。仙道は部活帰りによく見るTシャツとバスパン姿で私のことを迎えにきた。私服の仙道はスタイルがあまりに良くて街を歩けばモデルなのかと視線を集めるが、こうしてバスケットボールを小脇に抱えればたちまちバスケ部に見える。
 私も動きやすい服装で、彼と一緒に彼がよく行くストリートコートへ向かった。慣れない場所には、仙道とまではいかないがそれなりに背の高い男子が何人かいて、和気藹々とバスケットボールを楽しんでいる。私という存在は完全に場違いだった。

「とりあえずシュートの練習すればいいか」
「お手柔らかに頼みます」
「はい。こちらこそ」

 仙道から慣れた手つきでパスが出される。それを受けて、シュートを放ってみる。もちろん誰かに習ったことも練習したこともないので、完全にアドリブだ。体育の授業でやっているようにボールを放る。ガゴンと音がして、重みのある橙色の球体はリングにあたってから地面にぼとりと落ちた。そう上手くいくものじゃない。当たり前だ。運動神経に関しては良くもないが、悪くもない。特別得意も不得意もないので、そもそも目立たないタイプだった。

「……どう?」
「フォームさえ直して練習すれば入るようになるよ」
「フォームね」
「そう。ちょっと触ります」

 仙道が私の後ろに立って、それから前に手を回した。私の体を後ろから抱えるような体勢で、私の手を取り、これはこうとフォームを覚えさせる。背中はピッタリ彼の前面に密着していて、仙道は屈んでいるのか、振り返ったら顔もきっとすぐ近くにある。気配がすぐそこなのだ。何を言われても話が上手く理解できない。

「仙道くん、近い」
「ん?」
「近くて、集中できないからもう少し離れて」
「はは すみません、わざとです」

 悪びれもせずにそう言って、仙道は離れた。それからちょこちょこと手の位置や肘の位置を調整して、どうぞと言われる。フォームはこれで完成らしい。これならあんなに近づかなくても絶対によかったはずだ。
 彼に言われたままの姿勢で、膝を意識してボールを放る。さっきよりも少し高い位置で放物線を描いたそれは吸い込まれるようにしてネットを揺らす。振り返った先で笑う男は、憎いが、どうしたって格好いいのだ。

「上手」

 一回、二回とシュートが入り、私が満足したところで仙道がそろそろ休憩しましょうかと切り出して、コート外のベンチに並んで座る。勝手は分かった気もするが、これが本番まで持続するかと聞かれればまたそれは別の話。もちろん努力はするけれど。
 ダムダムとボールのつく音が響くコートそば。仙道がだらんと投げ出した長い足の先には海が見えて、単純に綺麗な場所だと思う。海があって、気持ちいい風が吹いて、大きな道路から離れているおかげか、静かで。隣に座る仙道が、風を受けて気持ちよさそうに目を細める。品のいい犬みたいだなと思ったけれど、それを口に出すことはしなかった。

名前さん、卒業したらどこ行くの」
「専門学校。栄養の勉強する」
「遠いとこ?」
「……いや? 実家から通うつもりだけど」

 彼の小さな笑いが、二人の間に落っこちて、その後に「そっか」という囁きが続く。彼はどこか安心したような顔で私の話を聞いていた。彼が私の言葉の何に安堵したのか分からない。さっきと同じ場所で、同じようにドリブルの音が響き、同じ乾いた風が吹いていた。私たちの髪が風に揺れる。風の行く先は春であり、その先に別れがあった。
 私はこの春、あの学び舎を卒業する。3年通った学校から新たなる場所へ進む。同じようにこの男とも別れるのである。しかしその時、私たちの間の物理的な距離が完全に離れることはない。私はこの土地に留まり、仙道にはまだ1年があるからだ。そのことに、この何事にも関心の薄そうな男が安堵しているのかと思うと、それだけで少しだけ嬉しくなる。単純だ。恋は人を愚かにする。私はいま、正しく愚かであった。

 好きだとも、付き合おうとも言わなかった。私も、彼も。今はまだこの距離でいいと思っていたし、名前のある関係性に縛られてしまうことが怖かった。好きだったけれど、好きだと言うのが怖かった。だから曖昧なものを曖昧なままにして、けれどそれを大切にしようとしていた。それが、十八歳と十七歳の恋だったのだ。

 球技大会当日。卒業式の5日前だった。
 朝から校舎内は騒がしく、校庭、第二グラウンド、体育館、剣道場、さまざまな場所で各種目が進行した。私たち3年生にとって最後の球技大会であり、最後の学校行事でもある。
 体育館の真ん中、第2コート。3年9組バスケットボールチームの第2試合。広い体育館を二つに分けたコートの中央に、私は立っていた。周囲に壁があり、ギャラリーから人に見下ろされ、ああだこうだと声が聞こえてくる。ボールをドリブルする音と、体育館シューズが床に擦れる音がした。
 水槽のようだった。箱の中に生きるものと、それを見ているものがいる。
 そこはもっと、広い場所だと思っていたのだ。魚住や仙道を虜にするバスケットボールというものは、うんと背の高い彼らでも伸び伸びと泳ぐことのできる広い場所でするものだ、と。私は勝手にそう思っていた。小さい頃、魚住がいた場所は、あの頃の私にとってとても広い場所に見えていたから。

「……仙道くん、わざわざ見に来たの」
「ちょうど空いてたんで。ファイトです」

 でも違った。
 体育館の端っこで私に笑いかける彼はいつも通りで、そこが窮屈そうにはまるで見えない。なのに、私が立つコートの中はとても狭くて、息苦しいところだった。四方の壁が呼吸を圧迫する。私たちを取り囲む生徒たちの目が、ここを居心地の悪い場所にする。
 私はここでは生きられない。そう思った。単純に、生きる世界が違うのだ。海と川とで生きる魚が違うように。魚が陸に上がっては生きられないように。私と仙道は、違う場所で生きているのだ。