『来週の金曜、飯行かね』
そう切り出したのは三井くんの方だった。というか、たいていご飯に行くときには彼が誘ってくれるのだ。誘ってもらってばかりなのはどうかという思いはあるものの、断られたらと思うと勇気が出ない。
私はその誘いに「いーよ」と了承し、彼が手料理のお礼に奢ると言うので「ありがとう」と言った。いたって自然で、何の澱みもなかった。彼の存在が私の日常に溶け込んでいるという恐ろしさだけが存在していた。
その日はあまり良くない1日だったと思う。
仕事は朝からトラブル続きで対応に追われ、自分の業務にろくに手をつけられなかった。それでもあまり残業するわけにもいかず、なんとか30分遅れで会社を出た。
金曜日の電車の中は誰も彼も浮き足立って、ちょっとぶつかられたり、いつから飲み始めたのか分からない酔っ払いに絡まれたりしながら、待ち合わせの店に向かった。
いつも通りの爽やかな笑顔で私を待っていてくれた三井くんは、「お疲れ」と言ってくれて、流し込んだビールが喉元を過ぎるあたりで何故か泣きたくなったのをよく覚えている。
「なんか疲れた顔してんな」
「うーん、今日はちょっとバタついてて」
「悪かったな、そんな日に」
「いや急なトラブルだったし、今日、私も楽しみにしてたし、……」
うっかり。そんなことまで言ってしまって、最後のは別に言わなくてもよかったなと思ったけど、そこで「間違えた」と言うのはあまりに失礼なのでとりあえず黙る。
楽しみにしてた、ってただの飲みなのに。
デートみたいな言い方して恥ずかしいな、全く。
「俺も」
「ん?」
「俺も、楽しみにしてたぜ」
屈託のない三井くんの笑顔に、私はああと心の中で深く頷く。
こういうところが、好きだな。
そう思えばストンと胸の真ん中に落ちてくる。それを受け入れることを怖がっていたくせに、認めてしまえば受け入れるしかない気がしてくる。
三井くんの言動に深い意味はないのだ。
でも出会った頃、他人と友人の中間だった私たちはすっかり友人になっていた。それは喜ばしいことでもあるし、残念なことでもある。友達になったら、そのさきを望むのは難しいだろうな。私自身がそうだから。
「三井くんの今日の仕事は?」
「別にフツーだな。退屈だよ」
「そっか」
それでも、ここで。彼の目の前の席で、彼の笑顔と声を独り占めできる今の立場で十分だろうと言い聞かせる。多くを望まない。それが大人の生き方だ。大人になんてなれた自信もないくせにそう自分に暗示をかけて。気づけば、お酒をたくさん飲んでいた。
あ。飲みすぎた。
目が覚めて割れそうになっている頭を抱えてそう確信した。
昨日、三井くんと飲んで、彼のことを好きだと自覚して、火照る体をうやむやにしようといつも以上にお酒を飲んだ。それがいけなかった。
目が覚めたのはリビングの真ん中で、かろうじて着ていたコートを布団がわりに体にかけている。フローリングの上で一晩明かしたせいか体は痛いし、頭はもっと痛い。
「み、三井くん」
うわー、と呟いたあとで昨日一緒にいた彼のことを思い出す。
目の前で私がベロベロになったのだ。迷惑かけたのは間違いない。一人で帰れたのかも疑わしい。タクシーを呼んでくれたとか、送ってくれたとか。三井くんなら普通にやりそうで、ますます頭が痛くなった。
「とりあえずケータイ……」
彼に連絡して、耳が痛いが昨日のことを聞いて謝らなくては。
持っていたはずのカバンを慌ててひっくり返す。財布、ポーチ、会社用の手帳。入れた記憶があるものはちゃんとあるのに、肝心のケータイが見つからない。
帰ってきてから出したのかとか、服のポケットとか思い当たるところは全部探したけど、それでもない。
「最悪なんだけど」
店に、忘れたという最悪の答えが頭に浮かぶ。
三井くんの荷物に紛れ込んだとか道で失くしたとか、可能性ならば他にもあるが、今この瞬間に家にないというだけで、どれが正解でも最悪なことには変わりない。
重なる自分の失態に泣きそうになるのをグッと堪えて、とりあえずシャワーを浴びる。昨日行った店は週末はお休みだ。取りに行くとしたら週明けになる。三井くんにそれまで連絡できないのは心苦しいが仕方ない。本当ごめん、と自分しかいない部屋で小さく呟いた。
▲週明け、仕事帰りに店へ出向くと店員さんに「お待ちしていました」と言われ顔から火が出るほど恥ずかしかった。何が大人の生き方だ。小学生からやり直せ。
「あの、ケータイを忘れたかもしれないんですけど」
「はい。お預かりしてますよ」
「すみません、本当。金曜日も迷惑をおかけして」
「いやいや。こちらは何も。お連れ様がしっかりしてましたので」
ああ、と小さく声が漏れる。お連れの三井くん。三井くんはスポーツマンなので、酔い潰れるほどお酒を飲むことはない。それに合わせるべきなのに、何をやっているんだ。2日遅れの自己嫌悪で顔を上げるのも恥ずかしい。
「すみません、ありがとうございました」
「いいえ。お疲れだったんでしょう、そういう時もありますよ」
私の醜態をバッチリ覚えているのか、店員さんが苦笑いで慰めてくれる。
聞きたくはない。聞きたくはないけど、一応のつもりで「私、なんか変なこと言ってませんでした?」と尋ねると、店員さんの目が丸くなって、また微妙な顔で笑われる。
「そうですね。好きだ何だって言ってるのは少しだけ聞こえましたけど」
「え!?」
「そのくらいしか……」
私、三井くんに、好きって言ったの——?