恋人の記憶がなくても世界は回るし、仕事はなくならない。本当は「休んでもいいじゃん」と萩原に言われたけれど、彼女も知らない男がずっとそばにいたら休まらないだろうと思うと、その言葉に甘える気にはならなかった。
 通い慣れた警視庁の喫煙室で、松田は白い煙を吐き出した。爆弾処理の身の上である以上、彼女が絡んだ事件の捜査には関われない。過去に1回、自分と萩原が巻き込まれた爆弾事件で無茶をしてから、捜査一課に警戒されているのだ。

 依存し切ったはずのニコチンを体内に取り入れても、松田の脳みそはスッキリしないし、イライラなのかそわそわなのか分からない心は落ち着かないまま。そんなんだからお前は現場に行くなと上司に言われて、やりたくもない事務処理をさせられている。普段なら後輩か萩原に押し付けるが、今の自分が情けない以上、そんなこともできそうになかった。

 一週間、二週間。会わないことなんてザラにあった。自分も彼女も仕事があってそれぞれの生活がある。それを共有したいとは思うけど、不規則な仕事であるから互いにべったり合わせることはできない。

 離れていても怖くなかった。
 いや、自分の預かり知らないところで多種多様な事件に巻き込まれる恋人は、確かに危なっかしいとほっとけないの権化ではあったけど。でも、怖くはない。彼女は自分が守るものだと決めている。彼女は、自分のそばでずっと生きるのだ、と。

 だから、それが露と消えかかっている今、松田は何をすべきか決めかねていた。

 仕事終わり、面会時間ギリギリで彼女の病室へ足を運ぶ。今日は昼間に彼女の両親が来ていたと看護師が言っていたから少し疲れているかもしれない。病室のドアを開けると、ベッドの上の彼女がゆっくり振り返り、松田の顔を見て「あ」と言った。それきり彼女は小さく会釈をするだけだったが、その後に彼女が言いたかったのは何だろうと思うと、また胸に思いがつっかえる。

「こんにちは、あ。こんばんはか」
「ドーモ。調子は」
「体調は全然問題なくて、頭の方は、あんまり変わらず……」
「そうか」
「はい」

 普段なら何も思わなくとも続く会話が、今は続かない。出会った当初ですらもっとスムーズに話せていた気がするが、彼女が今ほとんど全ての過去を失っているんだと考えれば、そうなることも自然な気がした。

「松田さん、ですよね」
「ああ」
「松田さんは、その、私とはどういったご関係で……?」

“あの子ったら、親の顔も分からないことに泣きそうな顔してたわ”
 夕方、彼女の母親から電話で聞かされた言葉がそれからずっと響いている。心根の優しい彼女のことだ。自分を大切に思う人間のことを忘れてしまっていることに罪悪感を覚えているんだろう。それは仕方のないことなのに。

 だから。今、ここで松田が自分は恋人だと言ったら、彼女はまた泣きそうな顔をするんだろう。好きな人間のことを丸っ切り忘れてしまっているということは、どちらにとっても悲しくて辛い。

「アンタの名前と顔と、住んでるところは知ってる」
「え」
「アンタが食堂やってたのは聞いたか? そこの常連だったんだよ」
「あ、それは今日。えっと、母親から」
「俺は警察で、アンタは過去に事件に関わったことがあったから、それでな」

 嘘ではなかった。始まりはそうだったから。
 自分は恋人だと名乗り、彼女に混乱と悲しみを与えるくらいなら、今は黙っておいた方がいい。松田はようやくそう決意した自分に安心していた。

 何があっても傷付けたくはないのだ。絶対に。彼女の心を守るのは自分の使命だ。記憶がなくとも、そう思っている。

「なるほど、それはお世話になっていたみたいで」
「お互い様だろ、それは」
「そう、なんですか」
「ああ」

 救われていた。支えられていた。彼女の傍らで歩む人生は楽しくて幸福だったのだ。

「——うまい飯を、食わせてもらってたからな」

 そう言ったら、名前は少しだけ安心したような顔で笑った。意識を取り戻してから、彼女が笑ったところを見るのは初めてだった。

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 病院を出たところで珍しい男から着信があった。松田のケータイの画面に[降谷]の2文字が表示されることは滅多にない。互いに喫緊の頼み事がある時にしか連絡は取らない、不思議な関係だ。

「なんだ、珍しいな」
「大変なことになってると聞いてな。調子は」
「体の方は問題なさそうだが、記憶はそう簡単に戻らねえよ」
「そうか」

 降谷の声を聞くと、頭から水をかぶったみたいに冷静になる。それはかつて負けたくないと競い合った反骨心と、分厚い信頼関係と、弱みを見せたくないというプライドが、まぜこぜになった複雑な感情から。

 電話越しの降谷が松田に気遣うように言葉を選ぶ。自分達同期にはあまりそういう話し方をしない男だから、本当に心底心配しているのだなと分かった。

「言ったのか。名前さんに、お前が恋人だと」
「……いいや」
「やっぱりな」
「なんで、んなこと聞くんだよ」
「いや。俺でも、言えないだろうなと思っただけさ」

 耳に当てたケータイを握る手に力が入る。そう言われて、もし友人がその選択肢を選んでいたら自分はなんと言うだろう。もっと自分本位になれとか、言わなきゃ後悔するとか。言うかどうかは別でも、思いはするだろう。
 だって、自分が相手のことを好きなまま「顔見知り」になるのは悲しいから。今、松田も多分、“悲しい”と思っているから。

「でもいいのか。記憶が戻るかどうか、分からないんだろう」
「別に。記憶云々は向こうの問題で、恋人云々は俺の問題だろ」
「それは、」
「記憶が戻らないなら、また一からやり直せばいいだけだ」

 降谷が小さく笑う。「そうだな」という返事が、今は心強かった。そうなのだ。もし記憶が戻らなくても、彼女が幸せに生きていけるなら構わない。もう一度、やり直せばいい。なんでそんなに諦めないのかと言われた、あの時のように。