仮に、尾形さんの”死んだ恋人”の話が偽りであるとする。

 宇佐美さんがその存在に心当たりがなく、尾形さんが彼女のことについて口を開くことも少ない。写真は一枚も存在せず、彼女の好きなものや一緒に行った場所を聞いても、彼は「ない」「知らない」と言うばかり。

 亡くなってもなお、その身代わりを探すほど愛していたのにそんなことあり得るのだろうか。答えは、『否』に限りなく近い。

 でも、そうだとすれば不思議なこともいくつもある。一つは、彼が語った彼女の話。外見的特徴も性格の話も全くの捏造だとは思えなかった。もう一つは、それが嘘なら、借金を肩代わりしてまで私に‘死んだ恋人のふり’をさせた理由は何かということ。嘘をついてでも、私を目の届く範囲に置きたかった理由。そして、その本当のことを私に言えなかった理由が、きっと。

 海から帰り、冬がようやく終わりの気配を見せてもやっぱり尾形さんはほとんど変わらなかった。唯一変わったことは、一緒にご飯を取るようになったくらい。それ以外は同じだ。あの家に来てはご飯を食べ、私の話を聞き黙ってテレビを見て帰ってゆく。あの家で眠りにつくことも、私に触れることもなかった。恋人らしきことと言えば、時々一緒に外に行くだけ。あの夜、間違いのようにキスをしそうになったことは夢だったのかもしれない。そう思い始めるほど私たちは何もなかった。

 3月になり、年度末で仕事が忙しくなる。私は春の慌ただしさに忙殺されるふりをして、尾形さんや尾形さんの嘘、自分の気持ちについて考えることにたくさんの時間を費やした。尾形さんは、本当に仕事が忙しいのか、家に立ち寄ることは週に一度あるかないか。顔を見ない時間の方が、相手の顔がよく浮かぶのは人間の不思議な本能だ。

 土曜日。その日は珍しく一人で銀座に出た。会社の同僚が結婚するというので、着ていく服を見に。思いつく店を何軒か回って、気に入ったデザインのものを見つけてそのまま買った。一人でも買い物はできるタイプ。むしろ気楽で楽しい。お店を回って少し疲れたので、カフェでも寄って家に帰ろう。そう思って一人でも入りやすそうなカフェに入った。休日の銀座には人が多く、特に大通りは真っ直ぐ歩くのすら難しい。カフェオレを一つ買って席へ。大きなガラス窓の向こうをひしめき合うようにして進む人並み。その中に見慣れた顔を見つける。人の波の中、店のショーウィンドウにもたれる丸まった背中。たまに来ているダークグレーのコート。ポケットに手を入れて、片方の手でスマートフォンを持っている。……尾形さんだ。近頃、私の頭の中を独占してやまない人がそこにいた。距離があり、人も多いせいか尾形さんは私に気づいていないようで、スマートフォンばかり見ている。

 仕事だろうか、私のように買い物かもしれない。あの家に来ること以外、彼のことなど何も知らないから、彼が銀座で何をしているかなんて予想もつかない。話しかけようか。「こんにちは、私も買い物中なんです」って。でももしかしたら仕事かもしれないし、そうでなくとも友人と一緒かもしれない。それに、このまま声をかけずに見ていたら私を悩ませている彼の偽りについて、何か分かるんじゃないか。本人に訊けない臆病さには見ないふりをして、少し邪なことを考える。

 知りたいと思っていたのは、本当だった。でも知る覚悟があったのかと訊かれたらはっきりとは分からない。その日、銀座の高級ジュエリーショップから出てきたのは、人混みの中でも目立つような美人で、その人は外で待っていた尾形さんに迷いなく声をかけた。尾形さんがそこにいるということだけに気を取られ、彼が背を預けたガラスの中に綺麗な宝石が飾られていることなんか気づきもしなかった。女性は嬉しそうに笑って青い紙袋を持っていた。‘よかったな’ 尾形さんの口が動く。どうして。……どうして見つけてしまったんだろう。神様が、もう知るべきだと言っているのか。尾形さんには彼女がいるのだ、と。

 私の視線には気づかず、二人は並んで行ってしまった。わざわざ追いかける必要も、気力もない。あれが真実だとしたら? もしかしたら、恋人ではないのかもしれない。亡くなっていないのに、私には「死んだ」と言った。つまり、生きていても恋人にはなれない。何か事情があるのかもしれない。それでも、彼はあの人のことが好きなのかもしれない。あの美しい人と私が似ているとは、天地がひっくり返っても思えないが、それでも彼が、何か共通点を見出したとしたら。結ばれることは叶わなくても好きな人。その人からは得られないものの代わりが私。しかし、何も望まず、求めることのなかった尾形さんのことを思い出すと、それも少し不自然に感じる。他にどんな理由があるかと訊かれると難しいのだけど。

 誰かに明確な答えを与えられたわけでもない。ただ、そういうものなのだ。人混みの中に消えた二つの影が近くなったり、少し離れたりして遠ざかる。それは、言葉よりも曖昧で、行動よりも明確だから。

 尾形さんは、あの人のことが好きなんだろうか。他の誰にも言えないくらい。代わりの女が欲しくなるくらい。あの人への思いが隠しきれなくなったのだろうか。私と過ごす時間の中で、彼は私の中に、あの人の何を見出したのだろう。

 考えるのはやめにする。彼を思うのもやめにする。そうするべきだと、きっと誰かに言われているような気がする。離れなくては。近くにいたら、心が離れ難くなってしまうのは分かっている。人の溢れる銀座の一つのカフェで、一人心を決めた。そんな私のことを図ったようなタイミングで、電話が来る。

「はい。ご連絡ありがとうございます。―大丈夫です、はい」

 大丈夫、終わりがあるのは分かっていた。

「吐息に全部を溶かすから、言葉は信じないでくれ」01