※「Flyday」軸
いつもと変わらない日になるはずだった。しかし、その日が“いつも”と少し違うという前兆は、思い返せば朝からあったのだと思う。目覚まし時計が鳴るより早く目が覚めたこと。うんと伸ばした体が、やけに重たかったこと。化粧ノリが悪かったこと。お客さんの呼びかけに気付くのが遅れたり、熱い鍋に触って火傷してしまったり。
お昼を過ぎる頃には、もう随分と重たくなった体とズキズキと痛み始めた頭が、自分の状態を否が応でも知らせてくる。大人になって風邪を引くなんて滅多にない。季節の変わり目に、お風呂上がり濡れ髪をそのままにしておいたのが悪かったのか。それとも、未だに短いズボンで寝ているのが悪かったのか。
情けないと吐いたため息も、少しずつ熱を帯びているような気さえしてくる。
私の目の前のカウンターに座っていた名探偵が、メガネの奥の瞳を光らせて、私の様子を覗き込んだ。
「名前さん、どうしたの? 風邪?」
「……名探偵はそんなことも分かるの?」
「だって顔色悪いよ」
「そう? やっぱり風邪かな」
幸か不幸か、今日はそこまでお客さんもたくさん入っているわけではない。ランチの時間が過ぎたらお店を閉めて、夜は休んで明日に備えることにしよう。早めに寝ておけばそこまで酷くはならないはずだ。
名探偵は、スプーンを握っていた手を前に出して、「手貸して」と言った。言われるままに、小さな手を握れば小首を傾げて、その温度を測っている。小学校1年生がやる行動としては、いささか理性的過ぎる気もするが、今更それを咎める気持ちにはならない。コナンくんが小学生のふりをする気がないのは元々だ。
「まだそこまで熱はないみたいだけど、早めに休んだほうがいいと思うよ」
「うん、そうするよ」
「お大事にしてね」
「君はホームズじゃなくて、ワトソン博士でもあるわけだ」
「……名前さんってホームズ好きなの?」
「まさか。誰かさんのおかげでちょっと知ってるだけよ」
「誰かって、松田刑事?」
「ううん。秘密」
本当は君のおかげなんだけど。それを教えてあげる日は来ないだろうね。
大きく欠伸をしながら、車を降りる。松田陣平が、ふと異変に気づいたのはそのすぐ後のことだった。通りに出ても、店の明かりは見えない。時計は何度も確認して、まだ営業時間には間に合うはずだった。店が閉まるギリギリに行って、働く彼女に「お疲れさん」と声をかけながら、閉店を一緒に待つ。店を閉めたら、一緒にご飯を囲むのが仕事終わりの楽しみだと断言してもいい。
だから、今日は間に合うと思いながらやってきたのに、肝心の店がやってない。人が少なくて早めに閉めたのか。だとしても、明かりは点いてる時間だ。
店の前に来て、closeの札がかかっていることを確認し、スマートフォンを取り出して彼女の番号を呼び出す。当然のように店に行くくせに、仕事の関係上『絶対』とは言えないからこそ、「今日は行く」と連絡を入れることはほとんどなかった。
しかし、鳴らしても電話には出ず、そのまま留守番電話に繋がれてしまう。風呂に入っているか、先に寝てしまったのならいいけれど。嫌な予感が頭をかすめて、松田はもらっていた合鍵を取り出した。彼女に「おかえり」と言ってもらうのが好きだから、これだって滅多に使うことはないのだ。
「名前、いるか?」
玄関も、廊下も、室内の電気はすべて消されている。急遽どこかに出掛けているのか。とりあえず室内の安全だけでも確認しておくかと靴を脱ぎ、そのまま部屋へと向かった。寝室の前で、ノックをする。友達と遊んでいるだけならそれでいい。松田は安心したかった。
「名前」
外から声をかける。返事はない。代わりに小さな咳が三度聞こえてきた。松田はそういうことかと納得して、「入るぞ」ともう一度声を掛ける。
いきなり電気をつけてしまうのは悪い気がして、ベッドサイドのランプをオンにした。もう何度も、何度も通った部屋だ。どこに何があるかくらい、見なくても手にとるように理解している。
「風邪か」
ベッドで苦しそうな顔をして寝息を立てる彼女の姿を確認し、ほっとため息をつく。良いとは言えないけれど、どこか知らない場所に行ってしまった訳でないならまだ良い方だ。彼女はとにかく悪運が強いから、目を離すとすぐに渦中の人。油断も隙もあったもんじゃない。
松田は手を額に当てて、熱を確認する。やや熱いが、そこまでひどいわけでもない。湿った前髪を払ってやれば、彼女の瞼が薄らと開いた。起こしてしまったようだ。
「陣平さん?」
「悪いな、勝手に入ったぞ」
「いいよ。カギ渡したでしょ」
「ああ。風邪か」
「そうみたい」
普段と違う歯切れの悪い話し方は、どうにも落ち着かない。喉が痛いのか、その声は掠れていた。必要なものはあるかと聞けば、喉が乾いたと言うので、水を取ってくることにした。薬は寝る前に飲んだそうだ。
キッチンにちょうどよく置いてあった常温の水をコップに入れて彼女が寝ている部屋まで戻れば、体を起こして待っていたのでそのまま手渡す。ありがとうと言った彼女の頭をさらりと撫でれば、安心したように目を細めていた。
「俺のTシャツあるか?」
「そこのタンスの一番下」
「サンキュ」
シャツを脱いで、Tシャツに着替える。風呂を出たら下も履き替えればいい。それも彼女がもう一度眠りについてからでいいだろう。
迷うことなくシャツを脱いだ彼を、名前が笑う。「ちょっと」なんて言いながら、「今更」と松田が笑えば、彼女も「まあね」と笑っていた。
ドレッサーの椅子を引いてきて、ベッドの近くに座る。電気を点けて顔をしっかり見れば、やっぱりいつもより顔色はよくない。熱がないのは幸いか。これなら市販の風邪薬でもすぐに良くなるだろう。
「ったく。体調悪いなら連絡しろよ」
「だって、来ちゃうでしょ」
「そのために連絡しろって言ってんだからな」
「移しちゃ悪いし」
「結局来たから意味ねえな」
恋人の見舞いをしたくらいで風邪を移されてしまうような柔な鍛え方はしていないつもりだ。それに仮にかかったとしても、彼女からそれを受け取るなら本望だ。思う存分看病してもらうつもりだから。
そんな心配よりも、連絡が取れないことの方が恐ろしい。消えている明かりに肝を冷やすなんて、同期に言えば揶揄われそうな話だということは承知している。でも心配なものは仕方がない。
「移したくないから会いたくないって気持ちと、一人きりで寝ていると会いたくなるって気持ち」
「――今は、」
「顔見たら離れたくないって気持ち?」
「体調悪いと素直になんのかよ」
彼女の手からマグカップを受け取って、それをベッドサイドのテーブルに置く。空いた手を握ってやれば弱い力で握り返された。風邪を引いた夜に心許ない気持ちになるのは、いくつになっても同じのはずだ。
「ありがとう、来てくれて」
「俺が会いたくて来た」
「でもうれしいよ」
「いいから寝ろ。寝れば治る」
「ん」
頭が痛いと言うから、髪に触れるのはほどほどにして。部屋の電気は消して、またベッドサイドのランプを点けた。何となく外すタイミングを見失って、繋いだまんまになっていた手をぼんやりと見つめていれば、彼女が「このまま寝てもいい?」と聞いてくる。良いよと言うのは恥ずかしいから、何も言わずに親指で彼女の手の甲をそっと撫でた。