秋の陽が燃えている。
帰りの電車から見た夕陽はまさにそんな様子だった。日の入りも少しずつ早くなり、冬の気配が迫る頃。長いこと電車に揺られたような気がしたが、それも仕事の疲れが見せる幻覚に近い。実際は片道20分少しの道のりだ。
最寄駅で降り、帰宅する人の波に乗り、スーパーマーケットへ流れ込む人たちへ身を預ける。火曜日は憂鬱だ。人それぞれだろうけど、私にしてみれば月曜日以上に憂鬱だ。週明けは割と忙しなく過ぎ時間の流れが早いのに、火曜日になった途端、潮の流れが変わるようにして、時計の針は進まなくない。
今日も恐ろしいほど長い午後を乗り越え、今に至る。
「名字?」
その苗字で呼ばれるのは久しぶりだった。
高校卒業と同時に、解放されるようにして離婚を決めた両親の事情により、大学入学から私は母の旧姓へと名を変えている。以降、そちらの苗字で通してきたのは書類ごとの面倒さを少しでも軽減するためで、「塩入」という名字に大した愛着もなかった私には特に抵抗のないことだった。
つまり、私が「塩入」であったことを知っているのは必然的に高校以前の知人に絞られ、そして生まれ故郷である湘南から遥か彼方と言ってもおかしくないこの場所に、その知人は存在しないはずだ。
人違いかも。
そう思いながら首だけで振り返る。人違いだったら何事もなかったように前を向けばいいだけ。そんな言い訳まで用意する。
「……三井、くん?」
それなのに振り返った先には、まさに知っている顔があった。
知っている顔と言っても親しかった訳ではなく、本当に『知っている』としか言えない程度の関係性の相手。
それでもすんなりと彼の名前が出てきたのは——自分でも割と驚いてる——彼が、何かと有名なバスケットボール部のメンバーであったから。それに尽きる。
三井くんは確か、3年生の時は同じクラスだったはずだ。推薦で大学に行くという彼と、受験に人生を懸けていた私の間に、会話らしい会話をした記憶はないけど。
3年生というのは大抵が受験の記憶で、行事もせいぜい体育祭くらい。その体育祭も運動神経抜群の運動部と万年文化部の間に接点は生まれ難い。そういうものなのだ。
「なに、名字もここ住んでんの?」
「あ。そうそう、会社の配属先がここで」
「へー。初めて知り合いに会ったぜ」
そりゃそうだろう。あの街とここがどれだけ離れていると思ってるんだ。
そうつっこみたかったけど、そんな仲良くないしと思って消えた言葉は愛想笑いに代わった。三井くんはそんな私のことなど気にもしていない様子で、嬉しそうに笑っていた。それは「久々に知り合いに会って嬉しい」という素直な笑顔だった。
三井くん。
なんとなく、高校生の頃より髪が伸びて、背も高くなったような気がする。あくまで「気がする」だけだけど。だって今も昔もよく知らないし。イメージの話だ。
「三井くんも、この近くに?」
「おー。実業団で、1年前にこっち移籍した」
「今もバスケットしてるんだね」
彼が口にした企業名はこの辺りではかなり有名な企業で、よくある地方豪族的な立ち位置の企業だ。言われてみれば、野球やらバスケットやら、やたらスポーツに力を入れている会社だと聞いたことがある。でも、それも風の噂で聞く程度のものだ。スポーツへの関心はもとより薄い。
「おー」
「そっか。すごいね」
それは、純粋な感情に基づく言葉だった。
あの頃、たくさんの級友たちが運動に青春の全てを捧げていたけれど、そのうちの何人が今も同じ情熱を同じスポーツへ傾けているだろう。それは並大抵の努力と実力で成し遂げられることではない。大人になると、そういう『口で言うと簡単なこと』の難しさが、痛いほど分かるのだ。
だから「すごい」と言った。本当に「すごい」と思ったからだった。
それなのに、三井くんはなぜか気まずそうな顔をして笑っていた。さっきまでの笑顔とは全然違う、ほとんど苦笑いに近い笑い方だった。私はその理由が分からず、何か悪いことを言ってしまったのかと困惑する。彼の口から滑らかに溢れる「サンキュ」の4文字が罪悪感を刺激した。
「……今、帰り?」
「そう。名字もだろ」
「うん」
逃げるようにして話題を変えれば、三井くんは数秒前のことなど何事でもなかったような顔に戻った。少しだけ怖い。でも掘り返す勇気はなかった。
私たちの会話は、短いラリーののちに途切れる。
それもそうだ。元々友人でもなんでもない、ただの顔見知りなのだから。ただ、生まれ育った場所が同じで、同じ校舎に3年間通っていただけ。同じ思い出を共有はしていない。ただ未だ馴染まない土地で知っている顔を見たから勢いで話しかけた。今の私たちはまさにそれだ。終わり方が難しい。
「悪かったな、引き止めて」
三井くんの視線と、口の中の言葉が散々宙を彷徨った後、最終的に視線は私の両手へ留まった。向こう3日分の食料を買い込み、パンパンに膨れ上がったビニール袋へ。
顎に残る傷をさすりながら申し訳なさそうな顔をする三井くんに「全然」と言葉を返し、「会えて嬉しかった」と伝える。それも、本心だった。じゃあ。そうどちらが言うか。数秒の駆け引きだった。少なくとも私はそう思っていた。
「あー送るわ。それ、持つから」
「えっ?」
「家、近いか?」
それなのに、三井くんの口から出てきたのは予想の斜め上を行くもので、咄嗟に「いや」と否定なのか拒否なのか、どちらにせよそれに近い言葉が口をつく。それでも嘘を言うわけにもいかず「近い、けど」と言ってしまった時点で、多分私の負けだった。
『重たいよ』とか『大丈夫だよ』とか思いつく限りの遠慮の言葉も、『夜だから』と正論をスポーツマンに言われてしまっては勝ち目がない。
結果、私は大人しく負けを認め、彼に甘んじて送ってもらうことを選んだ。重い荷物を持ちたくないのも嘘じゃない。持ってもらいたいと思ったことは一度もないけど。
「そういや、この前よー……」なんとなく、三井くんの隣を歩きながら考える。
話したいことが、あるのかもしれない。思いつく理由はそれだけだった。何か話したいことがあって、でもそれは電話や手紙で友達に言うのは、少し憚られることなのかも。それか、逆に全然仲良くない人間にしかできない話っていうのも世の中にはあるだろう。
だからそこにたまたま現れた私は、三井くんにとってちょうどいい人材だったのでは。
一人勝手に納得し、彼の話に適度に相槌を打つ。しかし、待てど暮らせど彼の口から出てくるのは取り止めもない話ばかりで、彼がわざわざ私を送ると申し出た理由にしては弱い気がした。
結果、得られたのは三井くんが私のマンションから歩いて5分のマンションに住んでいるという、至極どうでもいい情報だった。そんなこと知ってどうする。会社の借り上げだから安い上に光熱費込みなのはシンプルに羨ましいけど。
「……家、ここだよ」
ちょっと迷って、「送ってくれてありがとう」と付け加える。最後のチャンスを促してみたけど、三井くんはやっぱり大事そうな話はしなかった。
「いや、無理やりついてきたみたいなもんだし」
「でも、ほら。なんかあるよね。知り合いのいない街で知り合いと会うと別れづらいのって」
そんな経験、この街に来てから今日が初めてだったけど、なんとなく気まずい雰囲気を打破するためにそう言った。三井くんは少し笑って「まーな」と言った。彼には、こういう経験があるらしかった。私より顔が広くて、友達の多そうな三井くんならそれもそうかと納得する。今日のこれも、彼が単にお話が好きな人という可能性すら見えてきた。
「あのよ」
「うん」
「——今度、飯でもいかね」
今こそ、本当にバイバイだろうというタイミングを、また三井くんが切った。ちょっと恥ずかしそうな顔で、私を食事へ誘う。ご飯?私と? 友達でもないのに? 思うことは色々あったけど、そのどれも口に出すには失礼な気がして思いとどまる。
——やっぱり。
——何か、話したいことがある? 今、ここじゃ言いづらいとか。
三井くんの表情が変わる隙間に見え隠れする所在なさげな彼の弱気を、目敏く見つけて、ほっとけばいいのに、どうにも捨てきれないでいる。三井くんのことは好きでも嫌いでもない。何も知らないから、何の感情もなかった。
「いーよ」
それは、一種の人助けみたいな気持ちで。軽い気持ちで答える。私だって、この街に夜ご飯へ行くような親しい友人がいなくて暇なのは本当だし。
「ケータイ持ってるか?」
「うん、でも今日は家に置いてきてて」
「それじゃケータイの意味ねーだろ」
「ね。でもなんか持ち歩くの忘れちゃって」
だから番号言ってもいい?
三井くんが尻ポケットからシルバーのケータイを取り出す。番号を伝えれば、「自分の番号覚えてんのすげーな」と変なことに感心されて思わず笑ってしまう。いやいや。普通覚えてるでしょ。自分の番号なんだから。逆に自分以外の誰の番号覚えてんのよ。
「んじゃ連絡する」
「分かった。帰り気をつけてね」
「おー、じゃーな」
シルバーのケータイを三井くんはまたポケットにしまい、今度こそ正真正銘、バイバイをした。今度こそ、何も挟まれることはなく終わった。その呆気なさに一抹の寂しさを感じる。三井くんが恋しくてじゃない。ただなんとなく、近しい立場の人間と話すのが久しぶりだったから、単純な人恋しさだ。
見送る三井くんの背中が遠くなる。2個先の街灯のところまで彼が進んだのを見て、私もエントランスに入る。三井くんなんてどちらかといえば他人のはずなのに、あの人好きする笑顔を間近で浴びると、彼とは友達だったのかもしれないという奇妙な感覚があった。