生まれた頃から海を見て育った。
それはただ、私が神奈川の、結構海に近いところに生まれたというだけの話で、自慢でもなんでもない。海というものに特別な思い入れも有り難みも感じてないし。ただの事実だ。
だから「どこ行く」と聞かれて、少し迷ったけど、「海」と答えてしまったのは、私が海を好きなのではなく、ただ恋人たちが夏にデートするってなったら、なんとなく海かな、と思っただけ。
海って言ったら人がいっぱいいるし、彼は嫌がるかなと思ったけど、特に迷う風もなく「分かった」というので、私も「分かったのか」ってちょっと驚きながら、最終的に日程を決めた。付き合い始めて、デートに行くのは初めてだった。
当日。
海に行く前に私たちは最寄駅の、海へ行く出口は反対側の出口から出て歩いて10分くらいのところにあるカレー屋さんでカレーを食べた。
待ち合わせを少し遅めにして、少し遅めのお昼ご飯。こうやって少しずつ時間をズラして、混雑を避けた。きっと、彼はそんなことには考えてもいなかったと思うけど。
私はチーズののったカレーを食べて、流川くんはカツカレーを大盛りで頼んだ。流川くんは最初に一言「うめー」とだけ言って、あとはすごい勢いで小さな口の中にカレーを吸い込んだ。それは言葉にするのは難しいけれど、とにかくすごかった。ご飯少なめでと言った私の方が食べ終えるのが遅くなったくらい。
そうしてお腹いっぱいになった私たちは、14時を少し過ぎた頃にようやく海へ向かった。
子供がたくさん泳いでいるところじゃなく、遊泳禁止の人気のないところを歩いた。そこにはおじいちゃんとおばあちゃんとか、犬の散歩をする人しかいなかった。みんな夏なのに、泳ぎもしない海へよく来るなと思う。まあ、私たちもだけど。
「……いーのか」
「何が?」
「海。泳がなくて」
「いいよ。ベタベタになるし日焼けするし」
別に泳ぎたかったから「海へ行きたい」と言ったわけじゃない。そう言った時にも、彼が水着を持って来ないように「泳がないよ」とはちゃんと言ってある。
ただ、なんとなく海が見たかった。
海を見るなんて、何の意味もないし、何もならない。でも、そういう‘何にもならない’ことを二人でたくさん時間を使ってするのが「お付き合いする」ってことだって、どこかで習った。だからそれがしたかった。
「流川くんって、日焼けとかする?」
私の隣で、綺麗な黒髪を風に靡かせていた彼がこちらをチラリと振り返り、「する」って小さな声で言った。
……するんだ。
素直に、なんか驚いた。嫌味とかじゃなくて。
流川くんの、日焼けなんか知らない白い肌が羨ましい。それが、彼を好きになった理由みたいなもんだった。彼の整った顔やすごく上手らしいバスケット技術じゃなく、彼の白い肌が羨ましくて目で追い始めた。それがいつか、恋に変わってた。そのきっかけはあんまり覚えてないけど。そのことを、きっと、流川くんは知らない。
「日焼け止めとか、今日塗った?」
流川くんが、首を横に振る。
それは塗らないんだ。塗らなそうだもんな。
私は、そこで自分のバッグから持ってきていた日焼け止めを取り出して、塗る?と彼に聞いてみる。流川くんが、私の目と日焼け止めを交互に見て、頷く。そしてまっさらな腕が私の方へ伸ばされる。なんとなく、そうなるかもという予感はあって、私は特に驚くことも躊躇うこともなく、手に出した乳白色の液体を、彼の日焼け止めくらい白い腕に塗り広げる。
ただ面倒なだけなんだろう。日焼けするのも嫌いだろう。
これだけ白いと日焼けはしやすいだろうし。赤くなって、黒くならない代わりに痛くなるタイプだろう。聞いてないけど、聞かなくても分かる。だから、何も言わずに日焼け止めを塗った。
「……ありがと」
「外で練習とかすることあったら塗ったほうがいいよ。痛くなっちゃうかもだし」
「ん」
「おすすめのやつ。買っといてあげようか」
流川くんは、日焼け止めが塗られたばかりの少しベタつく肌を指で触りながら、キョトンとした顔をした。それから少し間が空いて、首を、横に振る。
「……帰り。一緒に行く」
その意外な返事に、私は驚いたけれど、すぐに「いいよ」と言った。急かされてもいないし、疑われてもいないのに、なぜか焦るみたいな声になってしまって恥ずかしい。流川くんに、海の後も一緒にいていいよと言われたことが嬉しかった。それだけで、私はこんなに変な感じになってしまう。うん、慣れない。
「……海、来て」
「うん」
「やりたいこととか、あったんじゃねーの」
流川くんの長い前髪から覗く、綺麗な瞳が私に問いかける。
彼は知らない。
私が流川くんの真っ白な肌に憧れて恋に落ちたことも。流川くんのために大盛りのできるご飯屋さんを探してきたことも。海に二人で来られただけで十分なことも。
——流川くんはなんにも知らない。
「もう、叶ったよ」
「……?」
「あー……でも、せっかく来たしかき氷食べたい。お腹入る?」
「む。入る」
「さすが。じゃあ、行こう」
あっちの人がたくさんいる方に、確か海の家があった。氷の暖簾も下がってたから間違いない。こんな暑い日には海辺でかき氷でも食べてみたい。夏だなって思いたい。夏に、夏っぽくない流川くんと海に来て、かき氷を食べたって。それはきっと素敵な思い出になるだろうから。
「……流川くん?」
「手」
「手?」
「行くぞ」
流川くんの長い腕が伸びて、バスケットボールも掴めるくらい大きな手が、私の手を握った。え、って小さく声が出ちゃった。聞こえてなきゃいいな。嫌なわけじゃなくて驚いただけだから。
流川くんもそういうことするんだって、恋人のくせに全然他人みたいなことを思い、ふと顔を上げる。前を行く彼の耳が、少しだけ赤い気がした。
それは単なる日焼けかもしれないし、私も流川くんのことを全然知らないだけかもしれない。どっちでもいいや。これから、お互い、知っていけばいいだけから。