あっと思った。その瞬間にはもう体が傾き始めていた。
このままではまずい。地面に顔から突っ込めば、どれだけ悪運の強い監督生であっても出血は避けられない。最悪傷に残るかもしれない。男子校に通っているとはいえ、心も体も女性である。顔に傷が残ることは避けたい。
ここまでコンマ1秒。しかし、どうしたって鈍ちんの反射神経では手が出てくるのが遅い。自覚はある。
監督生が手を出した先で、何かに触れた。地面でないことは確かだ。藁にもすがる思いで、それを掴んだ。ぐいっと柔らかいものを引っ張る。それが世紀の判断ミスであることはまだ知らない。
それは柔らかく頼りない。体勢を立て直すための支えにしたかったが、どうにも叶わなそうだと気付いたのは、監督生がそれを引っ張ったせいでそのものを転倒に巻き込んだからである。監督生はそのまま、そのナニカを押し倒した。
監督生は恐る恐る目を開いた。
真珠のように白い肌がまず目に飛び込んでくる。そして目と鼻の先に、美しいラベンダーの双眸。重なっているのはクチビルだ。
「――?」
監督生は勢いよく体を起こした。こんな何の障害もない道で転び、誰かを巻き込んで押し倒した。挙げ句の果てには口と口がぶつかってしまった。全く理解が追いつかない。感覚だけが言語化された様に鮮明なものとして襲いかかってくる。監督生は、自分はなんてことをしてしまったのだろうと思った。
「あの、私、ああ。ごめんなさい。そんな悪気はないんです、これは事故なんです。どうやって謝ったらいいのか。本当にごめんなさい、……アズール先輩」
押し倒された方、――アズール=アーシェングロットの真珠の如き白い頬が、熱された蛸のように赤くなっていく。彼は、手をジタバタさせて、弾みで外れて転がった眼鏡を手に取り、それをあるべき場所に戻した。ようやく目の焦点同士が合う。監督生はうわ言のように謝罪の言葉を繰り返していたが、アズールは口をパクパクさせているだけで何も言葉は発しなかった。水中の酸素を奪われた鯉の如く、何も言えなかったというのが真実だが、監督生も動転してそんなことには気が付かない。
「ああ、ごめんなさい、アズール先輩。お怪我はないですか。痛かったでしょう、思い切り乗っかってしまったもの」
監督生の中で盛大に転んだことも、それに他人を巻き込んでしまったことも、誤ってキスしてしまったことも、全て等しく恥ずかしかった。だから、せめて手当てでも、とアズールの方へと不用意に手を伸ばし、その手はあえなく払われる。アズールにとっては怪我の痛みなど、キスの衝撃で吹き飛んでいたので、その動作は脊髄反射に近い。
「……ケッコン……」
「へ?」
アズールの声からやっと言葉らしきものが聞こえたが、それはその状況とは全く繋がらない。監督生が驚いて、聞き返すと、ハッと我に帰ったアズールは真っ赤な顔のまま立ち上がり、逃げるようにその場を走り去っていった。監督生はぺたりと地面に座り込んだままその背中を見送った。混乱が混乱を極めている。どうにか落ち着かなくてはいけないと、深く深く息を吸った。
ようやく羞恥と動揺に支配されていた身体に酸素が回る。
その時になって初めて、監督生はアズールにキスをしてしまったという事実をじっくりと理解した。あの柔く温い感触は、アズールのクチビルだ。吸った息が二酸化炭素に変換される間も無く、口から吐き出される。(とんでもないことを――)
自分の顔が赤く赤く染まっていくのを感じる。監督生も立ち上がり、顔を腕で隠しながらアズールとは逆の方向へと走り出した。
監督生は頭を抱えていた。理由は簡単。アズール=アーシェングロットを転ばせた上に、キスをしたからである。どうしてそんな作り話のような話が起こり得るのか。これまで16年間生きてきて、そんなこと一度も起きやしなかった。この世界に来るまで、自分の人生を小説にしたら10ページにも満たないようなありふれた人生であったのに。
しかし、今日起こったそれは、魔法世界に運命の悪戯で迷いこんだことと比べれば小事である。共通点としては、未だ解決方法が見つからないこと。今回のことに至っては、何をもって解決とするのかすら分からない。
監督生は走った先のベンチに腰を下ろした。校舎の裏手側。随分と遠くまで来てしまった。状況を整理しよう。そうでなくては何も考えられない。監督生は、久しぶりに走ったせいで上がった息を整える意味を込めて、大きく息を吸い込んだ。
監督生はいつものように校舎の周りをぐるぐると回った。よく行く逃げ場は見て回ったがどこにもいない。もしかしたらオンボロ寮に帰ったのかもしれないと、少し急ぎ気味に道を引き返そうとした。その時に転んでしまった。鈍臭い人間は、何もないところでも足がもつれる。
そしてその時、運悪くその場に居合わせたアズールを巻き込み、押し倒し、クチビルを奪ってしまったというわけだ。そして、あわあわと謝罪を繰り返したが、あれが彼に届いていたかは分からない。とにかく両者ともに混乱していた。
はっきりとしているのは、最後にアズールが発した言葉だ。
「――ケッコン?」
口にしてみる。しかし、監督生が知っている『ケッコン』は『結婚』だけである。転ばされたところで、何が結婚なのか。あの聡明なアズールが文脈なくケッコンなどと言うとは、監督生は到底思えなかった。
監督生は困り果てた。ちなみに、先のグリムの逃亡の件に関しては、先ほどエースから屋根の上で見つけて、教授に引き渡した旨のメールをもらったので解決済みである。
アズールはとても賢く、時に冷酷で、時に慈悲深い男である。出会いは件のイソギンチャク&オーバーブロット事件であるが、あの時ほど嫌な印象はもう抱いていない。彼が非常に努力家で、情深い男であることも知っている。
しかし、監督生は自分がその情の対象となるかと言われれば微妙だった。仲は他の有象無象と比べれば良いと言えるが、関係は深くない。アズールは比較的交流のある先輩、同時にバイト先の支配人だ。
監督生が、2日後のシフトに思いを馳せて青ざめた時、目の前に真っ青な炎が揺らめいた。間違っても火の玉だなんて言ってはいけない。相手は繊細かつ図太いヲタクである。「イデア先輩――!」
「ヒイ! 監督生氏、なぜこの人のいないはずの道に、」
「イデア先輩、どうかお話を聞いて欲しいんです」
監督生は、またも藁にもすがる思いで、そのマネキンのように真っ白の手を掴んだ。それくらい必死だった。イデアならばアズールとも交流がある。それに引き篭もりのゲーマーとはいえ、先輩だ。有益なアドバイスをくれるかもしれないし、ケッコンの謎も解けるかもしれない。
一方のイデア=シュラウドは、女子に手など握られたことのないウブなヲタクだったので、振り払う力の強さも分からず、そのままクタクタと頷く他なかった。