彼は、私に何も与えなかった。生まれ故郷、戸籍、家族、学歴、魔力。
 この世界を生きていくのに必要なものを何も持たない私と違い、彼はたくさんのものを持っていた。素晴らしい故郷の海、優秀な魔法士としての名声、血を分けた家族に幼馴染み。双子の片割れ、その幼馴染みと共に動かす会社は、今や海を超え、陸の至る所でも話を聞く。この辺境の町にすら噂話が届くのだから相当に成功しているのだろう。さして学のない私でもよく分かる。
 NRCを卒業し、とうに5年が過ぎていた。
卒業した、といってもそこに記録は残らない。
男子校であるナイトレイブンカレッジを女性が卒業したなど、どうしたって公には出せない記録だ。

『貴女は、私の自慢の教え子の一人です』
『ありがとう学園長、本当にお世話になりました』
『ええ 例え名簿には残らずとも、私たち、そしてここで共に過ごした学友の記憶の中に永遠に君は残ることでしょう』
『大袈裟ね でも、……ええ。本当に感謝しています』

 学園長には最後に深い謝罪の言葉を述べた。
とても真面目な顔で、「私、優しいので」なんて一言も添えず。
 友の未来への期待と不安に溢れる瞳に、僅かに光る憐れみ。それは間違いなく、帰り道を見つけられなかった異世界人に向けられたものだった。

 卒業後、友と別れ、一人山間の小さな町に移り住んだ。
 誰の家からも遠い、不便な町。そこはその不便さ故、才ある人間が寄り付くような場所ではない。つまるところ、魔力を持たない人の多い町だった。
 ここでは私のことを気にかける人間は一人もいない。誰も彼も同じように魔力を持たず、慎ましい暮らしをしている。必要以上に関わりを持たず、二つ隣の家の人間は顔すら怪しい。

 助けを求めれば誰かが応える。しかし誰も対価を求めない。これ以上、面倒に巻き込まれるのは御免だからだ。

 学園時代の友達、特にエースとデュースとは、今でも時々連絡を取り合う。
 仕事はどうだ。恋人がどうだ。家族がどうだ。かつての先輩たちは今何をしているとかしないとか。良き友人だと思う。みんなのことは大好きだ。1年に1度、都合が合えば町に出て、一緒に食事をする。
 今や魔法士の端くれとして働くグリムも来て、昼から次の日の朝まで馬鹿騒ぎ。次の日ぐったりした体を引きずって、「ああ私たちも歳をとったね」なんて笑い合い鏡をくぐる。それはいつも楽しく輝かしい時間だ。でもここに戻れば、いつでもひとりぼっちに戻れる。


 ただ一人、この辺境の町を訪れる人がいる。
 ジェイド=リーチ。
 NRC時代、オクタヴィネル寮に属した鱓の人魚。学生時代、モストロラウンジでアルバイトをしていたし、何度も話した。それなりに仲の良い先輩であったという認識はある。二人で出かけたこともあるし、フロイド先輩と3人で珊瑚の海を案内してもらったこともある。どれも美しい思い出ではあるが、どれも彼がここにやってくる理由とするには不十分だ。

「こんにちは、名前 さん」
「こんにちは。どうぞ上がってください」

何をするでもない。彼はただそこにいた。
私が入れた紅茶を飲み、近況をゆっくりと話した。屋根の真上にあった太陽が、海の彼方に沈んで見えなくなるまで。

「随分と寒くなってきましたね」
「ええ 紅茶の美味しい季節に」

 モストロラウンジが、近く鏡を一つ乗り継いだ町にできたことは知っている。まだ行ったことはない。きっとこれからも行くことはないだろう。モストロラウンジでコースを頼めるほどお金はないし、かと言ってアラカルト一つ頼んで店に居座る度胸もない。

 でも、彼がここへ来るのはアズール先輩の差し金でも、店へおいでという誘いでもなんでもない。それが分かっていたから、私たちの間にその店の詳細が話題に上がったことはなかった。

 私の生活は、決して豊かではなかった。
 魔力のない人間に高給な仕事は残されていない。地道に長い時間働いて、物価の安いこの町で暮らせるギリギリのお給金。贅沢など一切できない。
 思っていた通りの、生活だ。
 惨めでもない。華やかでもない。楽しくもないけれど、別段不満もない。ただこうして生きて死ぬのかと考えたときに、ほんの少し虚しくなるだけで。

 NRCを卒業するとき、たくさんの人が声をかけてくれた。一緒に働こう、国へ来い、家を貸す。働き手を紹介しよう。どれもこれも有り難く、また、魔力の持たない異世界人にとっては贅沢な申し出だった。
 私はそれを一つ一つ丁寧に断っていった。そのどれかに甘えれば、きっと死ぬまで誰かに感謝し、恩を忘れず、それに報いるように生きることになると思ったから。せっかく世界に一人のひとりぽっちだ。せめて自分の人生は自分のために使いたかった。
 困った時に誰かの手を借りるのは、悪いことではない。当然、知っている。聞こえのいいことを言ってここに来たけれど、結局誰かの手助けを受けているし、同じように私も誰かを支えている。でも、やっぱりあの時誰の手も取らなかったことを後悔することはなかった。ひとりは寂しいが、生きやすい。

 ジェイドが、窓の向こうにある海を見ながら私の話に耳を傾ける。仕事の話、ご近所さんの話、最近家の周りに野良猫がよく来る話や、この前見たヴィルさんのドラマの感想。思いついた順番に、私たちは自由気ままに会話を楽しんだ。

 食材があればどちらかがご飯を作る。貸し借りはなし。ジェイドが作った次の回は、必ず私が作った。外でご飯を食べても必ず自分の分は自分で払う。それこそ最初は彼が払うと言っていたが、どうしても彼とは対等な関係でいることにこだわった。
 何もかも、私のわがままだ。でも、彼はそれを深く理解して、次から必ず私の意向に沿ってくれた。手土産をもらった日には、私もベランダで育てた野菜を渡す。ぴったり同じというわけにはいかないが、彼は私の気がすむようにしてくれる。優しい人魚だ。流石に慈悲深い。

「ジェイドさん、最近お仕事忙しんでしょう」
「ええ。ありがたいことに。でも何故?」
「目の下。クマができてるわ」

 人魚らしい白く陶器のような肌に、ぽっかりと深いクマがある。
 学生時代も、繁忙期にはそうしてよくクマを作って給仕していたが。彼曰く『燃費が悪い』らしいので食事や睡眠がひとよりもたくさん必要なたちなのだろう。顔がひどく疲れている。

「少し眠る? と言っても、ソファもベッドもジェイドさんには手狭になってしまうでしょうけれど」
「しかし、」
「疲れている時にお話ししても仕方ないでしょう。ね、そうして。起きる頃にご飯を作っておくから」

 少々強引に、下がり眉の彼を自室へと誘った。昨日干したばかりのシーツだ。まだ太陽の匂いが残っている。それに安らぐ感性が、人魚と人間で共通なのかはこの際置いておくとして。
 やっぱり足を少々折り曲げなければ収まらなかったが、ジェイドがベッドに体を横たえたのを見て、部屋の明かりを落とす。「お休みなさい」。そう言うと、控えめにジェイドが「ありがとう」と微笑んだ。

 ちょうど窓枠の中にあった太陽が水平線に沈み、代わりに月が波間に映る。シチューをたっぷり煮込み終えても、彼はまだ目を覚まさない。一度寝室を覗いたが、死んだように眠っていて、声をかけるのは憚られた。
幸い、休日は明日まで。まだ大丈夫だろうとソファに座って私も目を閉じた。

 次に目が覚めた時、すぐ近くに綺麗なオッドアイがある。

「すみません、眠り過ぎました」

私が緩やかに首を振る。時間はわからないが、夜の深い時間であることはわかる。鳥の声も聞こえない。草木も眠ってしまったのか、風が吹いても葉音一つ聞こえなかった。

「ゆっくり休めたようでよかったわ」
「僕はここでお暇します。長居が過ぎました」
「そんな。もう鏡も閉まっているわ、今日は泊まっていらして」

 ジェイドが、静かに目尻を下げて首を振った。頑なに、泊まる気はないらしい。彼の言わんとしていることは理解できる。私が彼に貸しを作りたくないことと、それはほとんど同じ感情だろう。

「じゃあせめて、シチューを食べていって。用意したんです」

ほうら、とキッチンの大きな鍋を指差す。彼は喜んでと言った。それにひどく安心して、同時に胸がキュルリと痛んだ。

 大きな手で大きなスプーンを握って、彼は夜更けとは思えぬ勢いで、鍋で煮込んだほとんどのシチューを飲み込んだ。食べた、と言うよりかは飲み込むに近い。まるでピノキオ。作品違いだとおかしくなる。
 私は彼が入れてくれた紅茶を両手で抱えて、彼の向かいに座っていた。チクタクと時計の針だけが動き続ける中で、私はハッと息を吸う。

「ジェイドさん、無理してこんな不便なところへ来る必要はないわ」

 本音を言うと、悲しかった。私たちは恋人でもなんでもない。そもそもこの世界に来てからというもの、そんな存在は持たなかった。
 でもきっと恋人に別れを告げるとき、同じ痛みを味わうだろうという確信はあった。海と月のような彼の瞳がわずかに揺れる。いつ見ても綺麗だ。この家から見える海と同じように。

「私が心配なのかどうか、分からないけれど。こう見えてちゃんと生きていけてるのよ。もう知っているでしょう」
「ええ 貴女は本当に偉いひとだ。でも、僕は名前 さんが心配でここへ通っている訳ではありませんよ」

 目を離そうとは思わなかった。でも、彼の言葉は真っ直ぐで、とても鋭い。だから、少しだけ怖かった。

「貴女のことが好きだから一目会いたくて。ただ、それだけのことです」

 そっと口の中で、言葉を殺した。偽りのない瞳に私が映っている。
 不幸には見えない。幸せそうにも。そのことにひどく安心している。

「……それは言わない約束だったのに、」
「おやおや。そんな約束をいつ?」

 笑って、なかったことにして。シチューと一緒に、ふたりの胃袋の中に収めてしまう。私も彼も、それを望んでいた。まだ覚悟がない。たった一つの言い訳を、心臓の裏に隠し持ったまま。彼は夜の闇の中で、「それではまた」と頭を下げた。


「久しぶりだねェ、小エビちゃん」

 愉快なのか、不気味なのか。鋭い歯を覗かせて笑ったのは、彼と瓜二つの双子であるフロイド=リーチであった。彼もまたNRC時代の先輩であったが、こうして顔をあわせるのは彼等の卒業以来、――つまり、6年ぶりになる。

 ジェイドとはこの5年間こまめに顔を合わせていたので、その変化に気づかなかったが、フロイドを見ると身に纏う雰囲気があの頃よりも大人びており、落ち着きすら感じることに気づく。

 あの頃は“海のギャング”の名に恥じない、傍若無人っぷりを遺憾無く発揮していたフロイドだが、ジェイドの話を聞くに、今は支店を任され人の上に立つ立場にある。同じままではいられるはずもないのだ。

「……フロイド先輩、なんでここへ?」
「ジェイドがねェ、働き過ぎで倒れたから代わり~」
「えっ、それは大丈夫なんですか?」
「う~ん、2、3日寝てれば治るってさぁ」

 大人になり、彼ら双子も適度な距離感に落ち着いたのか、はたまたもう心配はし終わったのか、非常にあっさりとその話を流すと、彼は大きな大きな靴を脱ぎ、明るい声で「お邪魔しまぁす」と部屋に上がってきた。
 脱ぎ捨てられた靴を揃えようと視線を落とす。靴が好き。そんな話を聞いたことがある。揃えて向きを直すために触るだけで、それがすごく良いものであることがわかる。とても高いのだろう。手入れもしっかりしてある。
 自分の玄関に並ぶ、安物のパンプスとローファー、スニーカーが1足ずつ。あとは夏用に、靴箱の中にサンダルが2足。それが私の靴すべて。羨ましいわけでもなかったけれど、なんとなく厭な気持ちになった。嗚呼。

 リビングに戻れば、窓の前にフロイドが立っている。
 キッチンの棚に手をかけて、彼にコーヒーは飲むかと尋ねた。本当の話、紅茶もあるが普段ジェイドの淹れる紅茶を飲み慣れているフロイドに、自分でそれを給仕する度胸はない。「うん」。聞いているのかいないのか分からない返事が来て、ひとまずコンロに火をつける。

 この世界には、魔力で火が灯るものもあるという。つまるところがIHの魔力版。近頃の主流はもっぱらそれで、最近建てられた物件はガスコンロが付いていないと聞く。いつまでこの家に住むかは分からないが、次の家探しは苦労するかもしれない。
 ヤカンからピューっと吹き出す水蒸気も見て、マグカップ二つにお湯を注いだ。刹那、コーヒーのいい香りがする。こだわりも正しい入れ方もあったもんじゃないが、コーヒーにお湯を注ぐこの瞬間はなんとなく好きな気がした。

「よっぽど良い山なの?あれぇ」

 フロイドが窓の外を指差している。海が見える窓とは別の窓。キッチンから出て彼の近くへ寄ってみれば、それは町の裏手にある山だった。山の存在は知っていても、登ったことはおろか、名前も知らない山だ。ジェイドとあの山の話をしたことは一度もない。

「アハっ ジェイド、山登りに来てたんじゃないんだぁ」

 私が言葉を返すまえに、困惑から返事を読み取ったのか、フロイドが嬉しそうに顔を綻ばせた。何が楽しいか分からないが、もとよりこの双子の考えていることなど理解できたことはなかった。だから大丈夫。

「山の話をしたことは、なかったですね、一度も」
「フゥン」

 フロイドの言葉で、ジェイドが在学中『山を愛する会』という部活を立ち上げ所属していたことをやっと思い出すレベルだ。そういえば当時、一度一緒に山を登りに行ったこともあった。道中はひたすら目に入ったキノコの解説をされ、頂上ではお湯を沸かして、その時もコーヒーを飲んだ。『山といえばコーヒー』。そんな話をされた気もする。
 あやふやな記憶が、堰を切って溢れてくる。どれも曖昧で輪郭などなかったが、どれもこれも温かい。楽しかったんだろうな、と、そう思えた。

「よっぽど良い女なんだね、小エビちゃん」

 私は、ひたすらに優しいフロイドの声に、どうしてか泣きたくなって俯いた。まさか、そんなこと。簡単な否定の言葉すら言ってしまえば、他のことも口やら目から流れてしまいそうな気がする。フロイドはすれ違いざま、私の頭に大きな大きな手を乗せてポンと撫でる。フロイドに気を遣われてしまうなんて、調子が狂いそうだ。


 それからコーヒーを飲み、30分も経たずして、フロイドが街へ行きたいと言い出した。大して見る場所もないと言っても、それでもいいからと聞く気がない。まあ時間もあるので構わないかと、やけに身なりのいい彼を連れ立って外へ出る。この街に限った話ではないが、この双子、目立って目立って仕方がない。

「本当になんもないねぇ」
「だから言ったじゃないですか。飽きてしまいました?」
「まだぁ」

 長い足を器用に細かく動かして、彼は私の歩幅に合わせてくれた。陸に好い人でもできたのだろうか。彼の一挙一動に驚かされる。ヒトに合わせるなんて、まるで嫌いな人だと思っていたのに。

 ふたり、メインストリートを歩きながら、彼が「あれは」と指差すものに、逐一ナニナニと答えを述べる。パン屋、噴水、シティオフィス。本当に最低限のものしかない貧相な町だ。2本足があればすぐに見るものなど尽きてしまう。

 いよいよ畑しかないというところまで来て、フロイドがすっと横道に曲がった。
 彼の半歩後ろをついて行けば、先にポツンと洒落た瓦屋根の雑貨屋が立っている。5年住んでいて初めて知ったお店。

「知ってたんです?」
「なんとなく曲がっただけ」

 ああ、こういうところがフロイド=リーチのフロイド=リーチたる所以である。迷うそぶりもなく、ドアベルを鳴らした彼に続いて、私も足を踏み入れた。
 アニメーションにでも出てきそうな内装に、枯れかけているとはいえ胸が高鳴る。置いてある雑貨の一つ一つが、ガラス玉みたいに煌めいて見えた。可愛い。質素倹約に努めて生きてきたこの5年。腐っても枯れても女は、可愛いものが好きな生き物だ。

「気に入ったのあった~?」

 ぶらりぶらりと店内を1周し終えたフロイドが、私の手元を覗き込んだ。殊更目を惹かれたのは、キャップにシンプルな宝石があしらわれた万年筆だ。琥珀色のそれが、光に当てられてキラキラと輝いていた。どことなくマジカルペンに似ている。でも、その宝石は彼の瞳の片方に見えた。

「それにすんの?」
「迷ってます」

 決して安い買い物ではない。でも、これを彼に贈りたいという衝動に駆られている。背後に立つフロイドにはそれら全部筒抜けのようで、「ジェイドの色だねぇ」と笑われた。

「それを言うなら、フロイド先輩の色でもあります」
「うん、でも、ジェイドの色でしょお」

 にべもなくそう返されて、やっぱり叶わないと悔しいような、すべてバレてしまって恥ずかしいような濁った渦巻きが心をぐるぐる廻る。じっとそれを見詰めて考えていれば、フロイド先輩はペン立てからもう1本、同じ形で色違いをとって、私の手に握らせた。

「小エビちゃんはこれにすればいいじゃん」

 琥珀に並んで光る、エメラルド。
 もうきっと、逃げられやしないのだ。彼の思いからも、自分の思いからも。十分に時間が経った。もう、いいだろう。

「俺も今は陸にいるし、小エビちゃんにならジェイドあげてもいいよぉ」
「あげるって」
「その代わり、小エビちゃんもジェイドにちゃんとあげてねぇ」

 あえて何をとは言わない。私は買ったペン二本を片手に持って、差し出された長い小指に自分のそれを絡ませた。

「……約束ですか?」
「ちがぁう、俺と小エビちゃんの契約」


 フロイドの突然の訪問の後、翌々週の週末。今度こそジェイドがユウの部屋を訪ねてきた。この程度の間空くことは珍しいことでもなかったが、今回ばかりはひどく久しぶりに感じる。

「こんにちは、名前 さん」
「こんにちは。体調を崩されたと聞きましたが、その後如何ですか」
「ええ、問題ありません。たっぷり休みを頂いてしまいました」

 その言葉自体は嘘ではなさそうだったので、安心する。
 いつもなら、玄関で彼を迎え、さあどうぞと部屋の中へ促すが今日は違う。彼の前に立ち、お願いがあると言ってみる。「何でしょう」。何だか分からないという顔をしながら、彼が困っている。
 貸し借りはなし。それが私たちのたった一つのルールだった。
「一緒に、行って欲しいところがあるんです」


 標高の高いところは空気が薄いと聞いて、登山初心者として心配していたが、そこまでハードな山でもなく密かに安堵する。子供でも登れそうなハイキングコースを、品のいい革靴と使い古したスニーカーが足並み揃えて登っていく。

 あの山に登りたいと言う私に、彼はもちろん構わないとそれを承諾してくれた。山登りに付き合わせるお返しに、靴を贈らせてくれと頼んだがそれはあっさりと断られる。この程度の山なら、これで問題ない、と。高そうな革靴に泥がついてひやりとするのは私だけらしい。

「それにしてもどうして急に山へ行きたいと?」
「単なる思い付きです。そういえばジェイドさんは山が好きだったなと思い出して」
「ええ それはそうですが」
「一度一緒に登ったこともその時に思い出したんです。鮮明な記憶ではないのだけれど、すごく楽しかったなあと。だから、また付き合ってもらおうと思ったんです」

 ジェイドは、いつものインチキくさい笑みではなく、屈託のない少年のような顔で「それは嬉しいですね」と言った。過去の記憶が鮮明ではないことは真実だが、彼の、この至極楽しそうな表情を見ていることも私の『楽しかった』記憶の一つであったような気がする。

 山自体は、本当に大したこともなく、1時間程度、彼のキノコ談義を聞いている間に登り終えることができた。と言っても、元々坂の上にあるせいか、そこそこに高さがある。街が一望、海の果てまでよく見える。

「いい眺めですね」
「登り終えた後の景色に勝るものはありません」

 清々しい気持ちがした。悩みも迷いも、すべてちっぽけなものに思えてくる。やっぱりここへ来たのは正解だった。強いて言うなら、コーヒーを沸かせるコンロでも背負ってくればよかったと後悔したが。

 独りで生きることは難しい。魔法が主となるこの世界で、魔力のないただの人間が生きていくとなれば尚更に。今だって本当がギリギリで、私が彼のように体を壊して1週間仕事を休めば、水道代もガス代もあっという間に払えなくなる。そういう生活をしているのだ。
 これを続ければ、いつか不都合が生じる。初めから分かりきっていた。
 それを知っていたのは、私だけでなく、学園長も先輩たちも級友もみんなだ。だから、各々が私に困らないようにと手を差し伸べてくれた。誰かへの恩を一生背負って生きていくのは嫌だったから、私は独りを選んだ。選ばせてくれなかったのは、ジェイドただ一人。
 生活が苦しくなればなるほど、彼を選べなくなる。
 よすがとしたいわけではない。自分の力で生きて、ゆとりを持って、そんな夢のような日が来たら、素直に好きと言えるかもしれない。でも、やっぱり、それは夢でしかないと、私も、――きっとジェイドも分かっていた。


 話がしたいと言った。ジェイドは頷いて、頂上に備え付けられた朽ちたベンチに自分のハンカチを引く。私は一言礼を述べてその上に腰を下ろした。並んで立っても座っても、彼と自分の違いを突きつけられてばかり。近づけることも、似ている部分もどこにもない。だからいいんだよ。フロイドの抜けた笑い声が、海の奥から聞こえた気がした。

「元の世界に、帰りたくないといえば嘘になります」

 こちらも見ずに、ジェイドが小さく息を飲むのが分かった。ひどく敏感になっているのだ。

「今すぐ、鏡と鏡が繋がって、ほら帰れますよと言われたら、私はきっと帰ります。いつまで経っても未練があるんです。だって、ここには家族もいないし、私は魔法を使えないし。だから、きっと帰ります。――でも、きっと。帰った後に後悔するんだろうって、最近は思うようになったの。どうして帰ってきてしまったんだろう、もう今更帰ってきたって仕方なかったのに、って、私は思ってしまうだろうって」

 ありのままの気持ちだった。清々しい風が抜けていく。隣に座る彼は、じっと何も言わなかった。思いも言葉も発しない。後になって聞けば、その時私に渡せるものはもう何も残っていなかったと彼は言う。彼らしい。

「ジェイドさん、私はきっと、貴方のいない世界に帰ったことを後悔するんです。帰りたいと願い続けてきたはずなのに、貴方のいる世界に生きていたいと思っているの」

 悩みも迷いも、この世の泡沫と大差ない。いつかは消える。この世界に留まり続けるものなど何もない。だから、もう十分だ。もう十二分に、私は帰りたいと願ってきた。叶わなかったのなら、それが答え。

「私は貴方よりも先に死にます。願わずして突然元の世界に返されてしまうかもしれない。何より私は魔法が使えません。この世界で最も不安定で、弱い人間です」

 大地の風と海原の波が、世界の境目を消してしまう。そこで貴方の手を取りましょう。

「――それでも、私は貴方と共に生きることを願います」

 彼は静かに泣いていた。美しい海だった。ヘテロクロミアから溢れる小さな海に手を伸ばす。大きな大きな手が、私の手を包む。彼の手の中にある私のそれは赤子みたいだ。無力で頼りない。ただ太陽の暖かさだけを包んでいる。

「……ご心配には及びません。貴女が元の世界に帰ってしまったなら、海を渡って会いに行きましょう。貴女が弱いと言うのなら、僕は最も強く賢い人魚になりましょう。貴女のためにこの力を使いましょう。それでも、貴女がこの世を去る時が来たなら、僕も共に死にます」

 真摯な瞳に、嘘や恐れは無い。反らすこともできずに受け止めれば、灼かれたように喉の奥が熱くなった。「……過激なんですね」。くつくつと笑みが溢れる。そっと額に寄せられた彼の薄い唇は、やっぱり海と同じ温度をしていた。

「僕らは古来より、愛に生きて愛に死ぬ種族です」

 大好きだ。彼のことを、とてもとても愛している。
 彼に渡したすべてが、私の渡せるすべてかと訊かれれば、まだ自信がない。でも、まだ時間はあるのだ。死ぬまで彼の隣にいると言ったら、まさかフロイドだって契約違反で取り立てには来ないだろう。


「あ、ヒライリダケ」
「おや、よくご存知で」
「前に登った時、あれは毒キノコだから絶対に覚えておけと言ったでしょう」
「そうでしたか」
「ジェイドさん、私、毒キノコだって知っているんですからね」
「……と言うと?」
「浮気したら貴女を殺して私も死ぬわ」
「おやおや 過激ですね」
「なにせ人魚の妻になるので」

 健やかなるときも、病める時も。
 山を登る時も、下る時も。
 共に手を取り合い、歩いてゆくこと。
 この命が尽きて、死が二人を分かつまで、彼を愛し続けることを誓います。

 窓から海が見える部屋。小さなテーブルに二人向き合って、紙に名前を二つ書く。琥珀とエメラルドのペンキャップが二つ、寄り添うように置かれていた。

部屋とワイシャツとと鱓