――5年目のよく晴れた朝、お気に入りのコートを羽織り、舞い散る葉っぱによく似た色のパンプスが、私を導く。朽ちたベンチに座った貴方が振り返る。どうか、夢ならまだ覚めないでいて―――
シェーパード通り、お気に入りのブティック。今日は手持ちのマドルが侘しいので、外から覗くだけ。ボーナスが入ったら手に入れたいファー付きのブーティーは、まだちゃんと飾られていた。
スーパーマーケットで安売りされているものではなく、専門店のちょっといいシャンプーが買えるようになった頃、この秋一番お気に入りのトレンチコートに身を包み、高さ5センチのヒールをコツコツ鳴らす。
石畳とヒールは何とも相性が悪くって、この街に来るたびに、ああ違う靴を履けば良かったなと思うのに、いつもお洒落で可愛さ重視の靴ばかり選ぶからいけない。切れたシャンプーとトリートメント、新しくできた雑貨屋で見かけた綺麗な白のプレートを2枚買って、紙袋を抱え直す。たまの遠出はいつも荷物が多くなる。
安さが自慢、近所の大型スーパーも勿論大好きだけれど、こういう街にしかないオーガニックが売りのフードマーケットは見ているだけで楽しいから好きだ。もう一つ、別の紙袋に果物と野菜、見たことのない調味料を詰めて、そろそろ帰ろうかという時だった。
案の定、足元が見えなくて、何かにつまづいた。咄嗟に手が出たから怪我こそしなかったものの、派手に紙袋の中身をばら撒いてしまった。ハアとため息を吐いて、膝をつく。今日はとても、いい日だったのに。勿体無い。「名前」
驚いて、顔を上げた。パロットグリーンの瞳とぶつかる。
吃驚して声も出ない私に、彼の大きな手が拾った林檎を差し出す。まさか、こんなことがあるなんて、夢にも思わなかった。
「大丈夫か」
「……うん、有難うね」
彼の手から、林檎を受け取り、急いで袋に詰め直す。彼は黙々と私の荷物を拾い、最後には、道路に置いておいたもう片方の紙袋も持ってくれた。
スカートの裾を払う。改めて礼を言えば、彼は「構わない」と言うだけだった。
年に似合わず落ち着き払った表情も、見上げるほど大きな背丈も、学園にいた頃から変わらない。彼の呼ぶ私の名は、いまだ、未練がましく耳に馴染んだ。
「良ければ、茶でもどうだ」
あの頃より、静かになった声の大きさだけが、残酷な時の流れを告げている。
柔らかなルッキー=コリンズの歌声流れる喫茶店。
彼は、あの頃と同じようにカフェオレを、私はアメリカンを頼む。店員さんは、決まって私の前にカフェオレを置いた。それを見て、小さく笑う。はいどうぞ、と彼の前にカフェオレを置き直せば、彼も私にアメリカンを渡した。砂糖一つを、添えて。
セベク=ジグボルトは、4年間同じ学び舎に通った友人で、そのうちの2年間を恋人として過ごした。華やかで、毎日が慌ただしかった学園生活。彼との日々は、流れる小川のように緩やかで、とても静かだった。春の風のように、私の心を染め、攫って、そのまま帰らない。私と彼は、重なることのない運命を束の間交換し、そして、卒業と共に手離した。
「随分と荷物が多いな」
「久しぶりに来たから、嬉しくなって、沢山買ってしまったの」
取り繕うように、「いつもこんなに買っている訳ではない」と言えば、彼はふと笑みを零し、別に責めていないと言った。私も責められていたつもりはない。しかし、こんなやりとりも、5年ぶりともなれば愛しいものだ。
「セベクは、よくここに来るの?」
「いや、今日は偶々だ」
「あら 何か用があって?」
口をつけたカップ越しに、彼の視線と交わる。
一息間をおいて、彼は「本を買いに」と言った。テーブルの上に置かれた一冊の本。彼が片手に抱えていたものだ。『Étude écarlate』――古典推理小説の著名な本だとアズール先輩に聞いたことがある。もうとっくに読んでいそうなのに、少し意外。
「それを買ったの?」
「いや、探していた本がなくて帰るところだったんだ」
「そう 残念ね」
セベクは小さく頷いた。あまり残念そうには見えなかった。
「今はどこに住んでいるんだ」
「薔薇の王国よ エースやデュースはもちろん、たまにトレイ先輩のケーキ屋さんにも行くし、そのままリドル先輩とお茶したりもするわ」
「リドル先輩は元気か」
「ええ 魔法医術士として活躍しているの、トレイ先輩のケーキ屋さんも美味しいって評判でね、この前雑誌にも載ったのよ」
「そうか」
ハッと口を噤む。それに気づいて、彼がどうかしたかと尋ねる。また私ばかり盛り上がってしまったわ、と言えば、セベクはそれを笑った。その笑顔も、まるであの頃と同じだ。
「でも、本当に久しぶりね」
「それはそうだろう 僕は茨の谷で年中マレウス様の警護だ」
「そうよね そう、マレウス、…いいえ、ツノ太郎やリリア先輩はお元気?」
「当たり前だ! お二人とも谷の繁栄に努めておられる」
セベクの自慢げな、誇らしげな表情が懐かしい。
彼が敬愛する二人の話をする時にしか見られない顔。と言っても、彼が話すとなれば、会話のほとんどがマレウスの自慢になってしまうけれど。
――マレウス=ドラコニア。妖精族の王。茨の谷で、王位を継承したことだけは、風の噂で聞いている。私とマレウスは、学園時代、ディアソムニア寮の寮長で、そのことを知らず「ツノ太郎」とあだ名をつけ、友情を温めた仲だ。そのことを知った後、必死で謝る私に彼は大きな口を開けて笑い、「どうかそのまま渾名で呼んでほしい」と言った。
高尚な種族の証である立派な双角が、少し恋しい。
「セベクも、元気だった?」
「軟弱なようではマレウス様の護衛は務まらん」
「良かった、昔から風邪ひとつ引かなかったものね」
「当然だ」
「ふふ もう5年よ。本当久しぶり。……セベクにはあっという間だったかもしれないけど」
「そういうお前こそ、どうなんだ」
パロットグリーンの宝石が揺れる。その奥に隠された心情を読み取るのに、昔は随分と苦労した。何を考えているか分からなくて、でもきっと分かりたいと願って、結局、本当に理解できたことは、両手で抱え切れる程度のものだ。
彼が私を慈しみ、私は彼の爪先から新緑のように鮮やかな彼の髪の先まで、私の愛で埋まるように心を返した。それだけが、17歳の私の全てだった。
「元気よ、ちゃんと暮らしてる。大丈夫」
誰に言い聞かせるでもない、耳障りのいいジャズに、私の小さな声が溶けていった。
「仕事はしているのか」
「うん 小さな出版社だけどね、地域紙の記者をしてるわ」
「記者か、」
「そう、文字と写真なら魔力がなくてもできるでしょう? 大層なものじゃないけど、読者には結構好評なんだから」
セベクは、もう何かを見下したようなことは言わなかった。
立派な仕事だと言った。あまりに彼らしくない言葉だと思ったけれど、彼も彼なりに大人になったのだと思う。とても寂しいと思ったのは、只の私の我儘で、大人になれなかったのは、私だけで、あの日、あの秋の葉が舞う廊下の柱陰に取り残されているのは、きっと私だけなのだ。
「そう言えば、エースが今度仲の良かったメンバーで、久しぶりに会おうって。きっとセベクにも、話行くと思うの」
「ああ、」
「同窓会はずっと行ってなかったんだけど、みんなに会いたいから行こうと思ってて、よければセベクにも来て」
二人の間に流れた沈黙をすくい上げて光にかざす。
それは万華鏡のようにキラキラとしていた。一度砕けた石は、もう同じようには輝かない。
「……あ、もし私がいて気まずければ、もちろん私は行かないからね」
「気まずかったら、茶に誘ったりはしない」
彼の低い声が、私のそれを遮った。
マレウス様の護衛で忙しいと、言われた。言われると思っていた。
私は、都合が合えば来てね、と伝えた。セベクが、伝票を持って立ち上がる。座った状態で彼を見上げれば、首が痛くなった。
「家までは送ってやれないが平気か」
「うん 有難う。久しぶりに会えて良かった」
セベクが頷き、背を向ける。その背中が、何度も見た夢と重なって、心が少しだけ痛んだ。もう千切れるような痛みも癒え、止められない涙も枯れた。モラトリアムのうちに育んだ幼い恋は、そうして少女から大人へと橋を架ける。
きっと、私はまだその橋の真ん中で、膝を抱えて蹲ったままなのだろうけれど。