「じんペーちゃんひどいクマ」
「ほっとけ」
「仮眠室使う?空いてたけど」
「帰る」

 荷物をまとめてがたんと引き出しを仕舞えば、萩原が態とらしく唇を尖らせた。

「いいねえ、彼女の待つ家ってやつは」
「お前もいい加減見つけろよ」

 じゃあな、と警察庁を後にする。重たい足を引きずって車に乗り込む。シートに体が沈んでいくみたいだ。全く、どいつもこいつも悪いことばっかしやがって。一回生まれ直せと言ったところで、事件は解決しちゃくれない。明日も早いことを考えれば、泊まっていく方が効率的かもしれないが。まあ、名前の顔でも見たいと言うワガママを咎めるやつもいないだろう。疲れを払うように、強めにアクセルを踏み込んだ。

 自分には何もできないと思ってる節は、同棲を始める前からもうずっとだ。警察という仕事柄話せないことの方が多いからか、黙って仕事ばかり増やしてゆく俺を、彼女なりに心配してくれたらしい。

 だからといって、話すわけに行かねえし、かといって、気にすんなと言うのも逆効果。結局、彼女のはの字に下がった眉を見ながら、その柔らかい前髪を触って落ち着かせるのが常だった。

『…鈍いんだよ』
『何が?』

 俺が、お前がいるだけでどれだけ満たされているか救われているか、そんな簡単なこと、一度だって考えたことないだろう。恥ずかしくて言えやしないし、分かれとも思わない。でも、笑った顔は曇らすな。伝えたいことしか伝えない。『わかりにくいようでわかりやすいんだ』と笑った彼女は、ほら、記憶の中でさえ、俺に力をくれるんだ。


 家に帰ってきたときの萎れた笑顔だったり、お風呂上がりに髪を拭く怠そうな動きだったり。ベッドに入ってからも、何度も寝返りを繰り返していて、私を起こさないようにを気遣いながら何度か水を飲みに行っていた。ああ、今日は疲れているんだなって、日頃鈍いと馬鹿にされている私だってきづいた。じんぺいは、いま、どの事件を扱っているのだろうと、今日見たニュースと新聞紙を思い出してみるけれど、彼が手がけていそうな事件は多すぎて、だからこんなお疲れなのだなとしか思えなかった。米花町は、毎日事件で大忙しなのだ。

 こういうとき、私にできることはとても少ない。事件解決のお手伝いができるわけでもないし、機密事項だ、話を聞く訳にも行かない。結局、戻ってきた彼の方へと寝返りを打って、彼のふわふわと柔らかな髪を撫でることしかできないのだ。

「……眠れねえのか」
「それはじんぺーの方でしょ」

 彼は疲れていても、疲れていると言えない人だ。だから何をしてほしいのか、絶対に言わない。いいから寝ろよと、彼が私に向けて手を伸ばす。さらさらと前髪に触られると、どうしても抗えない睡魔がやってきて、結局何もできないまま意識が遠のいてゆく。せめて彼がゆっくり眠れるように、彼の胸元へと潜り込んだ。

 目が覚めた時、カーテンの向こうはまだ薄暗かった。アラームはまだ鳴らない。もう少し、ゆっくり眠れる――「じんぺい?」隣に彼がいない。布団がめくれている。手を伸ばすと、かすかに温もりはあったけれど、もう随分と前にいなくなってしまったみたいだ。水でも飲みに行ったのか。もう少し待てば帰ってくるかもしれない。一息つくと、ふとまた睡魔が襲ってくる。

 『名前』 呼んでいるのはじんぺいさんだとすぐにわかった。でも、そこに彼の姿はない。カーテンの向こう側はまだ色彩を変えていなかったので、さっきからそれほど時間は経っていないようだ。重たい体を持ち上げて、リビングに行く、分かっていたが、そこにはいない。テーブルの椅子にかかっていたカーディガンをとって家の中を一周したけどやっぱりいない。玄関から一足、近くへ行く時用のサンダルがなくなっていた。

 サンダルをつっかけて、私も重い扉を押し開く。東雲の空は薄寒く、このカーディガン一枚では風邪を引きそうだ。中へ戻って、かけてあった黒のダウンを肩にかけ、今度こそ外へ出る。
【じんぺいさん、今どこですか】
寒いなあと呟きながら、とりあえず東へ行く。本当に、なんとなく。東の空は白み始めている。早く見つけないと、夜が明けてしまう。

 pipipi…

 写真が一件だけ。信号機と空っぽのいない児童公園。なんだこれ、なぞなぞか。わかりにくいようで、わかりやすい男だなあ。とりあえず東で合っていたことはわかったので、そのまま進む。これは土手の近くの児童公園だ。

 きっと土手に向かうんだなと当たりをつけて、近道を行く。次に来た写真が、土手へと続く階段だったもので、嬉しくなって笑ってしまった。少しだけ、息が切れない程度に足を早める。階段を上ると、だいぶ空は明るい。まだ夜明け前だが、もうすぐといったところ。さて、肝心の彼はどこだ。右左、キョロキョロして、やっぱり日の昇る方へと歩いてみる。そうすると、やっぱり先に彼がいて、私もなかなかの推理力だと、未だ冴えきっていない頭で考えた。

 一枚。曙を背に立つスエットの男を写真に収めて、そのまま本人へと送りつけた。タバコをくわえていたじんぺいが、尻ポケットからスマホを取り出してそれを確認。すぐに私の方を向いた。

「見ぃつけた」

 ブイっとピースサインを突き出せば、彼は笑いながらタバコの火を消して携帯灰皿へと入れた。近づくとふわり薫るタバコの煙。携帯灰皿が膨らんでいるのを私は見逃さなかったぞ、いったい何本吸ったんだ。

「それ俺のダウン」
「勝手に置いていった人の言うことは聞けません」
「置いてくって、起こすわけにも行かねえだろ」

 彼の隣に並ぶ。東の空が一段と明るくなった。夜明けだ。また新しい朝が来る。もう寝る時間は残されていないけど、妙に体はすっきりとしていた。おまけに、陽に照らされた彼の綺麗な横顔まで見られたなんて。早起きは三文の徳ではないか。

「……起こしていいんだよ」

 誰が誰を、言わなくてもここにいるのは私たちだけ。

 夜明け前、どこかへ行きたくなったら起こせばいい。話し相手が欲しいのなら、夜を明かして話し続けてくれたったいい。他の誰でもなく、彼だから、私は私のできる全てで、彼の隣にいたいのだ。

「なんでも、私に言えばいいさ」

 話したくないなら手を握ろう。眠りたくないならつまらない思い出話でも引っ張り出そうか。休みたいなら静かな歌を。人肌恋しい夜には精一杯の睦言を。ちゃんと、望むものは全部差し出すよ。それで、じんぺいが少しでも幸せになるのなら、私は何も厭わない。

「ちゃんと教えてよ、言える範囲でいいから」

 全部知りたいなんて思わない。あなたはできる限りでいいから、あなたの為に私ができることを教えてよ。

「バァカ」
「ひどいなあ、人が真剣に想ってるのに」
「片想いみたいな顔してんじゃねえよ」

 彼の力強い腕が私を抱く。二人きりの世界。彼の肩の向こう側、青くなってゆく空は美しい。

「十分なんだよ」
「そんなわけない」
「十分 これでいい」

 彼の腕がぎゅうと強くなる。私もありったけの力を込めて腕を回したけれど、これじゃあ私の重たい心のひとかけらを伝えられそうにない、困ったな。

「いつもお疲れさま」

 ありがとう。彼が息を深く吸った。そんな小さな音も聞こえるような静かな世界に、またあさが来た。私たちを待っている。手を取り合って、行かなくては。

「一緒に帰ろう」

トゲトゲの優しさに飢えてる