「なんでこんなことに」

 私はトレイを手に持ったまま、重厚な扉の前で立ち尽くしていた。最上階のデラックススイート。誰が泊まっているかと言えば、今回の主賓であるヴェスパニア王国の王女様だ。

 その王女様にお出しする食事の係が私。本来であればチーフが担当するはずだったが、今は見ず知らずの男性と会うのはよくないだろうということで、今回の厨房で唯一の女性である私に白羽の矢が立ってしまったと言う訳である。

 本当、なぜこんなことに?

 厳重な毒見とボディーチェックを受け、覚悟を決めて扉をノックする。メイドさんと共に「失礼します」と声をかけたが王女様からの返事はない。

「ミラ様、お食事をお持ちしました」
「失礼いたします。今回担当させて頂く名字です」
「要らない。下がって頂戴」
「ミラ様、お身体に障りますのでどうか」

 本当に蘭ちゃんに似てるなあ、この子。人間、世界に3人は自分とそっくりな人間がいると言うがどうにも本当らしい。

 メイドに反抗する王女様の気持ちも分かるが、私は仰せつかった仕事をこなさなければ帰れないので淡々と用意を進める。あらかじめお作りしたものでは不安だろうということで今回は目の前でおにぎりを握ることにした。もちろん、私のアイデアだ。先輩は言葉失ってた。

「ちょっと、貴女。勝手に何を」
「これはおにぎりと言って、日本の夜食の定番です。炊いたお米はしっかり毒見して頂きましたし、目の前でお作りするので毒の心配はありません」
「そういうことじゃ、」
「皆さん、王女様が心配なのですよ。少しだけでもお口に入れてください」

 熱々のお米をラップに取って、軽く握って具材を詰める。余ったご飯でよく陣平さんにも作り置きしているので、綺麗な三角形には自信あり。うん、よくできた。

 一国の王女様に手作りのおにぎりを出すなんて恐れ多い気もするがこれが一番安全な料理だ。しかも美味しい。おにぎりを食べると幸せになれると言ったのは、田舎に帰った私の母だった。

「はい、どうぞ」
「……」
「腹が空いては戦は出来ぬとも言いますし」
「イクサ?」
「戦いのことです。何をするにもお腹が空いてはよくないということです」

 ミラ王女は少し悲しそうな顔をして、しかしゆっくりと手を伸ばしておにぎりを受け取ってくれた。えっと、確かこのあとホテル脱走して蘭ちゃんと入れ替わるんだっけ? 無茶をするにも空腹は良くないだろう。多分。

「――おいしい、」
「ん。良かったです」

 メイドさんと顔を見合わせれば、ひどく安心した顔をしていた。これから何が起きるかは一旦考えないことにして、ひとまず良かったと思うことにしよう。

 大量に余ったお米は今日の賄いにすることにして、私は部屋を出た。その部屋からスプリンクラー作動のアラームが鳴り響いたのは、その30分後のことである。

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 同日。警視庁内喫煙室。

「おっ、陣平ちゃん発見〜」
「よお」
「聞いた? サクラサクホテルで事件だってよ」
「あ?」

 先に煙草を吸っていた松田の隣に萩原が腰掛ける。いつもはむさ苦しい警察官で溢れているが、この時間ともなれば二人の貸切だ。今日も今日とて平和に残業する二人の会話のネタはもっぱらその日の大きな事件だ。

 萩原はヴェスパニア王国の女王が来日し話題になったホテルで、早速事件が起きたことを松田に教えた。先日の王女と王子の死亡事件以来、何かと話題の尽きない国である。

「ヴェスパニアって言ったらこの前事件があったばっかだろ」
「だから外交上の混乱狙った悪い奴がいるってことでしょうよ」
「ったく……あ」

 松田は煙草の灰を灰皿に落とし、手を止めた。サクラサクホテル。ニュース以外でも聞き覚えのある名前だと思ったが、もしかして。

「なに、どしたの」
名前が今日そこのキッチンに応援に行くって言ってたような」
「へえ、また事件に巻き込まれてんの。名前ちゃん」
「縁起でもねえこと言ってんじゃねー」
「どうだか」

 今回はビルから飛び降りないといいけどね、と萩原が笑う。松田は真顔で萩原の顔を引っ叩いた