カチン
静かにぶつかるシャンパングラス。もちろん初めて。シュワシュワする。美味しい。船長さんに連れて来てもらったのは、路地裏のさらに裏道にあるような小さなレストラン。こんな奥まったところに?って思ったら、この町は海軍の駐屯地もあるからと言われた。なるほどである。懸賞金はもちろんまだまだ大層な金額になっていない船長だが、ノースブルーの海軍には面が割れているかもしれないのだ。(あの物騒な人たちばかりが泊まってた宿屋は論外として。)そこまでして外でご飯食べたかったのと思ったが、ここ一週間はグランドライン進出に向けて調べ物三昧だったそうで、目の下のクマがいつもより酷い。息抜きしたいのさってサンゴさんも言ってたから、信じてみよう。
「そのネックレスは、」
ステーキにナイフを刺した時、船長さんは顔を上げて私を見ていた。胸元で光るネックレス。一部星の欠けたそれは、太陽の髪飾りと同じで、私のお守りみたいなものだ。仕事の邪魔になってはいけないと、常につけている訳じゃあないけど、こうやって外に出かける時は取り出してる。なんだ、って言われると、なんだろうか。
「昔、よくしてもらった人に貰ったもので」
「……男か」
「えっ?」
今度は驚いて私が顔を上げる。船長さんは淡々とステーキを食べていた。「そうですけど、」よく分かりましたねって笑ったら、船長さんはつまらなさそうだった。顔も上げない。
「船長さん?」
「……」
「何か怒ってます?」
「──そうだな」
また、淡々とステーキを食べ続ける。このステーキは柔らかい。ナイフがスっと入るや。
「……それを引きちぎりたいくらいには」
ポカン、として、食べたお肉の味は分からなかった。少しして、ぷっと吹き出すと、船長さんはますますつまらなそうな顔をする。こんな顔をしてくれるようになったなんて、私は長く一緒にいすぎたみたい。
「笑うんじゃねーよ」
「ごめんなさい」
でも、だって。胸に溢れる感情に、名前をつけたらもう引き戻せないでしょう。
「スモーカーさんって名前の海兵さんだったんです」
いつも葉巻をもくもくさせてた。私のお店の常連さんで、すごく強い人だ。強面だったけど、本当はとても優しい人。目の前で強姦魔を吹き飛ばしたときなんて、私の息が止まりそうになったな。懐かしいや。もうずっと前になる。元気かな、元気だろうな。
「そいつのために船を下りるのか」
船長さんは真っ直ぐ私を見た。だから仲間にならないのか、と。バレていたのか流石だなって笑いながら、違いますよと首を振る。あとひとくち。美味しいステーキも残り少し。時間は、まだたくさんあるけど、ない。砂時計の砂が落ちきる前に。
「このままだと大切な人が死んでしまうんです。だから助けたい、絶対に。だから、……船は下ります」
グランドラインに入る前に言うつもりはあった。少し怖かっただけで。逃げられることでもない。私の言葉に、船長さんは何も返さない。尋ねない。今すぐ出ていけよと言われれば、それまでだ。黙って従う。でも船長さんはそんなことはしないだろうと予感もあった。意外と嫌なやつ、私って。
それから会話はないまま店を出た。支払いは済んでいて、ごちそうさまですと言ったけど、すたすたと歩いて行ってしまう。私も小走りで後を追いかけた。細い道をぬけ、大きな道に戻ってくる。飲み屋に明かりがチラホラついてて、酔っぱらいのおじさんの声ばかり。そこを抜けて、港近くまで行けば、人は少ない。隣にいた船長さんの歩みがだんだんゆっくりになる。
宿屋の明かりが見えたところで、彼はおもむろに私の腕を掴んだ。そして後ろから私の胸の前に腕を回す。一気に速まった心臓の音が、絶対に彼に聞こえているから格好悪い。(なんだって、こんなこと)
「行くなよ」
そっと、闇に紛れる声で。彼は囁く。私の肩に顔を埋めて。せがむ子どものように。これが私の知ってるトラファルガー・ロー?違う。きっと私だけが知ってるローだ。
「行くな」
そっと回された腕に触れる。温い。それか私の手が冷たい。どっちもだ、きっと。
「……困っちゃいますよ」
「困らせてんだよ、馬鹿」
意地が悪いなあ、全く。小さく浮かんだ悲しみは、風に吹き飛ばされた。沁みる、心臓がぎゅうと痛む。「名前」彼の声に導かれ、振り返ると、唇が重なった。とうとう、重なった唇を、私はどうしても拒むことができずに、それでも受け入れることもきっとできず。目を瞑って現実逃避。弱虫の特権である。