夜の星が、雲に隠れて見えない夜。ギャハハ、ワハハと響き渡る声を聞きながら、私はマストに背を預けて腰を下ろした。この船にお世話になって、随分と長い時間が経ってしまった。指折り数えて迫り来るその時を待っていたけれど、いよいよもうすぐそこまで来ている。私はふうっと大きくため息を吐き出して、また下手くそなペンギンさんの歌声に耳を傾ける。宴も酣。お酒はあるだけ見えるところに置いてきたし、作ったツマミはとっくに尽きてなくなった。あとはなるようになるだろうと、酒臭い食堂を抜け出してきたのだ。

ひとりきりで甲板、というのも中々乙なもの。独り占めしてるみたいで良い気分だと思っていたのに、コツコツと迫る足音はそれすらも許してくれないようで、それでも、聞きなれたその音が少しだけ嬉しくて、おい、と彼の低い声になんて返事をしようかなんて思う間もない。

「なに勝手に抜けてんだ」
「船長さんこそ。ダメでしょう、主役がいなくなっちゃ」

彼はドサリと私の隣にしゃがみ込み、ワイングラスを私の手に持たせた。誰も気付かねぇよ、と言いながらドボドボ注がれる赤い液体は、うーん、高級なそれと見た。ワインかあ、ワイン。普段はめっきりお酒を飲まない私であるので、もしかするとスモーカーさんと飲んだのが最後かもしれない。

「今日くらい付き合えよ」

まあこれは宴に参加することにはならないし、いっかと口つける。あの時より美味しく感じるということは、あの時より私も大きくなったということだろう。まだ若かった彼は、もう原作通りの見た目になっているのだろうか。会いたいなあ、と思って、でもそれは叶わなくて。知らずに零れた笑みを、ぎょっとした目で船長さんが見てる。お恥ずかしい。

前にも、こんなことがあった。船長さんが見張りを買って出た夜、寒いからとコーヒーを持って行った。ふたりでブランケットにくるまって、私はココアを飲んだ。今はブランケットも必要ないちょうど良い季節。海とワインってやっぱり合うなと頷いた。

「前に、家族はいないと言ってたな」
「はい」

しばらく海を見て思案していた様子の彼は、口を開いたと思ったら、何やら重たい話をしそうだ。私はなんにも知らないフリで、変わらずワインをあおる。飲みやすくていけない、飲みすぎて、きっと、記憶がなくなる。

「俺の家族も昔死んだ」

それから船長さんは、ゆっくりと、自分の過去を話し始めた。後になって思えば、宴の始めからぶっ通しで飲みまくっていて、彼は相当に酔っ払っていたのだと思う。でも酔ってるんですか、と茶化すような話でもなく、それに久しぶりのお酒で私もぼんやりしていた。だから、うん、と頷きながら心地よい波の音と、ベポさんとサンゴさんの不協和音なデュエットと、彼のはなしを聴きながら、静かに時が流れるのを待つことにした。

素敵な家族がいたこと、故郷が病気で滅んだこと、自身もその病気にかかっていたこと、仇である天夜叉と過ごした時間、恩人との出会いと別れ。前にも言った、それは不幸で、でも決して捨てられない過去だ。船長さんは淡々と、まるで他人の話のように、それを私に教えてくれた。刹那、船の一室でドフラミンゴが見せた横顔がチラつく。(ああ、ああ)人間って、そう簡単に幸せにはなれない生きものだ。お金がすべてじゃないように、正義も思い出も人生のすべてではない。色んなものが重なり合って、自分の生きる時間を支えてくれる。だから、この世は辛くて、難しいことばかりと、私は2度目の人生で悟った。でも、辛くて難しいことばかりの世の中も、意味はある。それを見つけられるかどうかは自分次第で、どうにでもなる。

船長は言う、この命を懸けてもあの男を倒す、と。憎しみと、何もできなかった弱かった自分への悔しさ。仲間と出会い海に出たことも含めて、彼が強くなるのに必要だった。そう思えば、意味はある。何もかも、すべてじゃあないのだ。

「私は船長さんみたいに苦しくて辛いことなんてなんにも知らない世間知らずですけど、それでも、わかったことがあるんです」

彼の息遣いも、漣も、よく聞こえた。

「──愛された記憶があれば、なんだかんだ、生きていけると思うんですよね」

あなたも私も、家族はいなくても、愛された記憶はちゃんとある。人の温もりも、優しさも、ちゃんと知ってる。

「だから、船長さんは大丈夫です」
(だから、大丈夫)
「なにが大丈夫なんだ」
「憎しみに囚われて、大切なものを見失っても、ちゃんと戻って来れるってことです」

ドフラミンゴを倒す日がやって来る。その結末を、私は知らない。でもどんな結果になっても、船長さんは大丈夫だ。

「待ってる人がいるって、大切なことです」

みんながいるから。船があるから、果たすべき夢があるから。私が笑うと、船長さんはグラスを置いて、私の頭の後ろに手を回した。倒れるように強く引かれて、思わず彼のシャツの裾を握った。ペタリとくっついた彼の素肌は、思ったよりずっと温かい。なんだってこんなことになってるのか、いけない、頭が上手く回らない。

「そこにお前はいるのか」
「え?」
「お前も、俺を待っててくれるのかって聞いてんだ」

諦めが悪いんですね、と笑って誤魔化す。明確な答えを出せと迫られたら、NOになってしまうから、それを伝えるのは、あまり気が進まない。待っていたいとは思う。でもそれを伝えるのは卑怯者なんだろうなと口を閉ざして、みんなが探しに来るまで、ふたり、抱き合ったままでいた。