ふとした時に、思い出す味。思い出す横顔。味気のない瞬間を、意味のある何かへと変えてくれる人。いつも考えることなんてできっこない。自分のやるべきこと、仕事、守るべき正義と国民。どこで寝てどこで生きてるかもわからない人を守る、それが自分の仕事。選んだのも自分。当たり前のように受け止めて来た時間が、少しずつ変わってゆく。恐れることは何もないのだ。
「もーらい」
横からヌッと伸びて来た腕が、デスクの上。お弁当箱から、卵焼きを一つ攫って行った。はしたねえ。こんなことする大人の顔が見てみたい。
「絶妙な味付け。名前ちゃんか」
ニヤニヤと嬉しそうな萩原を無視して、松田は歯で箸を咥えて割った。唐揚げ、焼きそば、のりたまのかかった白米。男子高校生さながらのラインナップに松田はため息をつきながら笑った。男とは、いつまで経っても成長しない生き物だ。つまり、成人したって唐揚げが好きなのだ。
「えっ、松田さんに彼女?」
「何お前、狙ってた?」
「ちげーよ」
「違うんすかぁ」
「無視かぁ」
後輩は息巻いて、身を乗り出した。松田の彼女の有無が、彼の人生にどんだけ影響があることなのか。色恋にやたらと首を突っ込みたがる、女みたいなやつだった。機動隊でも有望株のその若手は、例のお店の人ですね!と図星を突いてくるので困る。「うっせー」と追い払っても、なかなか離れようとしないし。なんなら弁当覗き込んで目をキラキラさせてくる。ストレートに言うと邪魔。泣かれるから松田は言わない。手作りとはそんなに物珍しいか。松田が弁当持っているのがそんなに好奇のタネか。おそらく後者。
「……で、どうやってそんないいもん手に入れたのよ」
「さあな」
「素直じゃないねえ」
まあいいけど。萩原は笑って、コンビニ弁当をかきこんだ。松田も箸を進める。弁当って冷めたら美味しくないから難しいですよね、なんて。ウンウン唸っていた後ろ姿。1日の中で、数分。それはふとした瞬間に訪れる幸福だ。冷めてもうめーよ、といつ言えるだろうか。
「そう言えばお前、彼女できたのか」
「は」
「弁当。彼女の手作りだって?」
松田は先輩の言葉にどっぷりとため息をついた。暇なのかケーサツ。ついさっきのことが瞬く間に広がっている。そんなくだらない噂してるの誰だ。面倒だ。
「違いますよ」
アッサリと否定する。松田の態度に、先輩――警察学校時代に世話になった恩人――は一笑し、そうだろうなと言った。お前は惚れた女は隠しそうだ、と。
先輩に呼び出され、男の尾行を手伝った。体が空いてるかと聞かれ、丁度休みも少なく、大きな案件もない。空いていると伝え、呼び出されたの映画館。ホシは麻薬を密売している疑いのある男、今は女とデート中。映画の後、ホテルに行って、そこで女と取引するらしい。ちなみに女はこっちの回し者。ホテルで現行犯逮捕の算段だ。
「感づかれないように見張ってりゃいいんだがな。一人で見るには怪しすぎるだろう」
先輩はそう言って、貼られたポスターを指差す。松田は手の中の半券を見た。確かにこの映画を男一人で、しかも30代のいい歳した大人が見ていたらちょっとヤバそう。でも野郎二人で見る方がもっとヤバそう。どうして、それに気付かない。見る前から億劫だ。
映画の中の少年が言う。別に恥ずかしいわけじゃないと心の中で言った。
その時点で、おそらく俺の負けなのだ。
先輩の追っていた案件は無事に片付き、男は無事に逮捕。俺は早々に解放された。本庁に戻って、雑務。今日はさっさと出ようと思っていたが、退勤直前でトラブル発生。気づいたら、だいぶ遅い時間になっていた。ケータイはポケットに押し込んだまま、わざと見ないようにする。急ぎ足で店へと向かうと、明かりの消えた電飾、ドアにはcloseの文字。カーテンの隙間から溢れる光に、そっと胸を撫で下ろす。
ゴンゴン
思ったよりも喧しい。パタパタと駆けてくる足音。ドアが開いて、松田を見た彼女はどうしたんですかって目を丸くした。どうもしない「腹減った」そうしたらアンタに会いたくなった。どっちが言い訳かは自分の頭で考えてほしい。決して、恥ずかしい訳じゃない。
余り物しかないですよと笑い、彼女は鍋に火をつけた。腹が満たされればなんでもいい。ここに来た時点で、半分くらいは満たされている。
「弁当、サンキュ」
「わざわざ!ありがとうございます」
からかわれませんでしたかと聞かれたから、ガキかよと言う。ガキが数十名いたけど気にすんな。あいつらはああ見えても優秀だ。
「……美味かった」
人を好きになることは恥ずかしくない。言葉にするのが恥ずかしいだけ。