やってしまったと、思った。
きっかけは些細なこと。何が最初の理由だったかも忘れてしまった。ただ、これまで、今日までの間に積み上がった鬱憤が、一回の引き金で暴発したのだ。それは例えば、前回会った時から3ヶ月は経っていたとか、今日の味噌汁の味が薄かったとか、洗濯物が少し湿っていたとか、本当に小さくて、いつもならわざわざ口にも出さないようなこと。
普通の男女にとってはよくある喧嘩。抱きしめて、俺が悪かったと口にして、見つめ合ってキスすればそれで済む話。なのに、それができなかった。疲れていた? 自分にうんざりした? 今日のホシに腹が立っていた?――何も、正当化する理由はない。
『名前にはわからない』
言ってはいけないことを言った。頭を抱える。言った瞬間に悲しみに歪んだ彼女の顔を見て、自分の失言に気づいた。言っていいこと、ダメなこと。そんな当たり前のこともわからない。俺は彼女の前ではただの子どもだ。
ドアの前で、息を吐く。自分の背丈より少し高い程度のそのドアが、今はてっぺんが見えないほど高く感じた。手の中にある銀色の鍵。渡されて以来、一度も使ったことのないそれを、今、使おうとしている。彼女の部屋に来たとき、インターフォンを押すと自分以外の手でドアを開けてくれるのが嬉しかった。お帰りなさいと言われるのが嬉しかった。暖かい部屋に、美味しそうな匂い。彼女の部屋で、彼女と一緒に居られる空間そのものが癒しだった。だからいつも急に来たふりをして、鍵は忘れたと言ったのだ。いつも鞄の底に眠らせたそれに、気づかないフリをした。『渡した意味ないじゃん』そうやって笑う彼女が、どうしても見たくて。
怖かった。もし、今、インターフォンを鳴らしたとして、名前はこのドアを開けてくれるのか。自分の手でドアを開けた。合鍵を使って。音を立てて開くドア。ひんやりとした空気が俺を悲しい気持ちにさせる。さっき飛び出した時のまんま、散乱した玄関。リビングに通じる扉は開いたまま。何もかも、変わってない。彼女のすすり泣く声だけが聴こえる。
「名前?」
リビングの真ん中で立ち尽くしたままに泣く彼女。傷つけたのは自分。泣かせたのは自分。我慢させて、見えない重荷を押し付けているのも自分。俺は、彼女を幸せにできてない。
「零さん?」
ハッと顔を上げた、彼女の瞳は真っ赤だった。それでも泣き笑いした彼女は、良かったと言う。
「何が?」
「もう、今日は帰ってきてくれないかと思いました」
だから良かったと。俺は彼女を、こんな風に苦しめてばかりで。
ゆっくり近づいて抱き寄せる。「ごめん」と、こめかみにキスを一つ。私もごめんなさいと、彼女が言う。それで、解決する。やっぱりそれだけの話だ。本当にくだらないのに、どうしてもぶつからないと分かり合えない。
「あんまり自分を責めないで」
「え?」
「私は零さんがどんな仕事をして、安室さんがどんな風に生まれて、他の場所でどんな風に生きているのかなんて、何も知りません。何も知らないけど、零さんも、私が普段どんな風に生きて、どんな風に働いて、いつどうして泣いてるのか、わからないでしょう」
彼女が、言う言葉は全部正しくて。俺は彼女の何もかもが知りたいくせに、何も知らない。知ろうとすれば情報は容易に手に入るだろう。でも、何もかも知ってしまうことを恐れて、結局、家で朗らかに笑う彼女以外、知らなくていいやと思う。
「…そうだな」
「うん、だから、おあいこですね」
もう一度抱きしめて、離したくないと囁く。明日、朝が来れば音もなく消えるくせに。都合のいい男だ、俺は。俺は、彼女のすべてを知りたい。でも、彼女には俺に関する何も、知って欲しくはない。君は綺麗なままで。ただ、ここで、こうして彼女を抱く、俺の姿だけを、その記憶に刻んで欲しいと思ってる。
ドアを開けると、エプロン姿が最高に似合う安室さんが私を見て微笑んだ。
「いらっしゃいませ、珍しいですねこんな時間に」
「急に安室さんのコーヒーが飲みたくなってしまって」
「それは嬉しいです」
お好きな席に。くるりと店を見渡すと、窓際の席にコナンくんが座っていた。お姉さん!と呼ばれてしまったので、向かいの席に失礼する。コナン少年は生意気にもコーヒーを飲んでいる。しかも添えられた砂糖とミルクは未開封。本当にませた子だ。
「元気だった?」
「うん、お姉さんも?」
「私はいつも元気だよ」
大体、零さんに関すること以外は。
「お待たせしました」
運ばれてきた、コーヒーに、ケーキののったトレイ。ケーキは僕のサービスです、と彼が小さくウィンクする。かっこいいよ、そりゃあ。もう、目が潰れてしまいそうだ。ありがとうございます、と返して私は添えられた砂糖を入れる。私はコナン少年のように苦いものは好まない。何事も、甘いのがいい。
「お姉さんって、誰の彼女なの?」
コナンくんはコーヒーカップに手をかけたまま、私に尋ねた。難しい質問だとはぐらかそうとしたけどだめ。彼の追求を逃れるのは、零さんと同じくらい困難だ。
「降谷さんと安室さん、二股かけてるの」
コーヒーは、美味しかった。風が冷たくなってきた今、ちょうどいい温かさが私を包む。降谷さんみたいだ。
「ふうん」
「小学生にする話じゃないね」
コナンくんは、本当は何者なのだろう。時折、考える。憂いを帯びた瞳で、私と零さんの今後を心配してくれる彼は、本当は何者で、私よりもたくさん零さんを知っているのだろうか、と。
「お姉さんは、どこまで知ってるの?」
「今日はやけに知りたがるね」
「教えてよ」
「教えたいけど、私、何にも知らないよ」
何にも。彼の名前、出身、過去、現在も未来も。
彼は話したがらない。でも、私を離すのも嫌だと言う。意外とわがまま。私が知っているのは、わがままな子供のような、それでいて誰より優しい降谷零だ。
「――いつか、いなくなっちゃうってことくらいかな」
サヨナラを伝える時間は、あるだろうか。アイシテルと伝える時間は、あるだろうか。何もかも不明瞭なまま、それを正すこともしないで時間を過ごす。それが私たちなりの幸せなのだ。
「安室さんがいなくなったあと、お姉さんはどうするの」
「どうもしない、ちゃんと生きてゆくよ」
きっと、そういう私だから彼は私を選んでくれた。
「それでいいの?」
「だって、いま、彼が私のこと好きって言ってくれて、そばにいてくれる。それだけで十分だと思わない?」
笑えば、コナンくんは悲しそうな顔をした。私は小さな頭を撫でて、大丈夫だと言った。私はたくさんのものを持っている。だから何も持たないあの人に、私の人生のほんの短い時間を、分け与えることくらい、なんでもない。幸せな時間だった、と10年後も、100年後の私も言うでしょう。君が、彼が、そんな風に思う必要はないんだよ。
「名前さん、あと30分で上がりなので、一緒に帰りませんか」
「喜んで」
ずっと、彼を好きなまま、何も知らないまま、愛を。
最愛を望む小さな破滅
song「リップサービス・メンソール」by 巡音ルカ