彼――宇佐美時重は、雷と共に私の目の前に現れた。

 その日は朝から怪しい空模様だった。お天気お姉さんは「雨が降るかもしれないから傘を持って外出を」と日本国民に呼びかけた。私も彼女の言うことを聞いて傘を持って仕事に出たのが朝。一日の退屈で退廃的な仕事を終え、いつものようにビルを出る。時間は6時半を過ぎ、今にも雨の降り出しそうな黒い雲が空を覆う。

 目の前が、雷で、刹那強く明るく光る。光からすぐ後に空が割れるような大きな音。近くに落ちた。怖さもあったが帰らなくてはいけない。ビルを出たすぐの道路で私を待つ、その人を見るまでは確かにそう思っていた。夜の闇に溶け込む真っ黒のスーツ。黒塗りの車にもたれかかって煙草を吸っている男は、たった一度会っただけなのに、私の記憶に刻まれた悪夢だった。

「お疲れ様。遅かったね」
「……宇佐美さん、」

 宇佐美さんは、私に車で送ると申し出た。もちろんすぐに断ったが、彼は譲る気はないという顔で後部座席の扉を開いて私を待っている。「早く」と焦らせる声。ここで押し問答をして、会社の人に見られるのは困る。私がそう考えることもわかった上で、ここで私を待っていたのだろう。

「危害は加えないよ。理由がないからね」

 理由があったら危ないこともする、という意味にも聞こえたが、今はそんな細かいところを争っている時間はない。私は彼の言葉を信じ、開かれた席へと乗り込んだ。すぐに扉が閉まり、隣に宇佐美さんが座る。煙草の匂いがした。閉じられた窓、運転席と後部座席を隔てる分厚いガラス。その狭い車内だけが、世間や日常という慣れ親しんだものからまるで隔絶されている。

「元気そうだね」

 友達でもないくせに、宇佐美さんが軽快にそう話を切り出し、私は密かに身構える。この人の言葉を信じて車には乗ったが、この人自身を信じることはできない。私が「はい」と肯定し、会話は途切れた。まさか、世間話をするために、わざわざあそこで待っていたとは思えない。

「借金のことなら、尾形さんから返済したと聞いています」

 私が意を決して話し始めても、宇佐美さんに何ら変化はなかった。私の言葉を「そうだよ」と認めても、今日来た理由はまだ明かさない。借金以外で、私と彼をつなぐものなど存在しないのに。目的は? 狙いは?車に乗ったのは悪手だったのかもしれない。今になり、怒る尾形さんの顔が浮かんできた。

「百之助と暮らしてるんでしょ?」

 私の動揺、迷い。ここでは全てが筒抜けだ。何の恐れもない人生を二十五年以上歩んできて、裏社会の人間を騙せるような嘘をつけるはずがない。

「嘘ついても全部知ってるから意味ないよ」
「……じゃあ何を聞きに来たんですか」

 全部知っている’いう言葉は、きっと嘘じゃないだろう。そうでなければ、私に住所を聞かずに「送っていく」とは言えないはずだ。まあ、この車が絶対にあの家に向かっているという保証もないけれど。しかし、それなら何故私に事実を確認するのか。尾形さんも大概分からないけれど、宇佐美さんの方がきっと百倍難しい。

「ん〜? ただの興味本位」
「は、」
「なんであんな奴と付き合ってるワケ?」

 宇佐美さんの、いかにも興味津々だと言わんばかりのギョロリとした瞳はこちらを向く。敵意があってもなくても怖いことに変わりはない。私は、彼の興味が単なる早とちりから生まれたことに安堵した。

「違いますよ」

 宇佐美さんの目が、今度は猫みたいに丸くなる。分かりにくいのか、分かりやすいのか分からない。宇佐美さんの目を見ていると、いつかぎょろぎょろ魚みたいに動き出しそうな、嫌な予感のようなものが頭をよぎって長く見ていられない。

「尾形さんとは、付き合っていません。彼の亡くなった恋人の代わりとして、一緒にいるだけです」

 事実を述べた。どうせ嘘は通じない。

「なにそれ」
「なにと言われても、そのまんまの意味です」
「死んだ恋人?」

 車は徐々にスピードを緩め、やがて停車した。車内にわずかな沈黙が訪れたが、それはすぐに宇佐美さんの声で破られる。

「誰のこと? それ」

「どんなまことをお持ちでも」01